「五代友厚」朝ドラ『あさが来た』や大河ドラマ『青天を衝け』にも登場! 渋沢栄一と並ぶ明治の実業家
- 2021/09/15
薩摩藩の武士出身でありながら、大阪の地から近代経済の発展に貢献した人物がいます。実業家の五代友厚(ごだい ともあつ)です。
薩摩藩に生まれた友厚は幼い頃より海外への興味を抱き続けます。成長した彼は長崎海軍伝習所に入所。当時最新式の航海術やオランダ医学に触れることが出来ました。真価が発揮されたのは、類い稀なる交渉能力です。
薩英戦争では捕虜となるも薩摩藩の力を誇示。パリ万博では薩摩藩の出品に関与するなど暗躍しています。
維新後は大阪経済の復興と発展に尽力。商業学校の設立などに功績を挙げ、生涯を通して同地と歩み続けました。
友厚は何を目指し、何と戦い、どう生きたのでしょうか。五代友厚の生涯を見ていきましょう。
薩摩国に生まれる
天保6(1836)年、五代友厚は薩摩国鹿児島城下で五代直左衛門秀尭(ひでたか)の次男として生を受けました。母はやすです。幼名を才助と名乗りました。
父・秀尭は薩摩藩の記録奉行でした。『三国名勝図絵』の編纂者としても知られ、藩領(薩摩、大隅、日向の一部)の地誌や名所をまとめた功績者だったのです。友厚が広い見識を持つようになったのは、父・秀尭の影響があるようです。
友厚は、西郷隆盛や大久保利通も受けた、薩摩藩における伝統的な「郷中教育(ごちゅうきょういく)」の中で育ちました。児童院で学び、聖堂に進んで学問と武道を学んでいます。
安政元(1854)年、横浜沖にペリー提督率いる黒船艦隊が再び来航。日米和親条約を締結します。
幕府はなし崩しに開国を決断。全国的に攘夷論が沸騰する契機となり、世の中は騒然とした雰囲気に包まれました。当時の友厚は、志を立てることと決意。新しい時代への雄飛を誓ったとされています。
翌安政2(1855)年には、薩摩藩郡方書役助を拝命。まだ書記官(農政を預かる)の補助役という軽微な立場でした。
友厚は職務に甘んじる道を選びません。最先端の知識を学びたいと願っていたようです。兄・徳夫は鎖国論者でしたが、友厚はすでに開国論に傾いていました。
長崎海軍伝習所に第1期生として派遣
安政4(1857)年、21歳の友厚は薩摩藩から選抜され、長崎海軍伝習所に派遣されています。
海軍伝習所は、幕府が設立した海軍士官養成を目的とした教育機関です。内部では航海術はもちろん、蘭学(オランダ医学)や舎密学(化学)を教授。西洋砲術や測量についても教えていました。
友厚は海軍伝習所第一期生として入所し、勉学に励み、オランダの海軍士官から航海術を学ぶことが出来ました。このときに勝海舟や榎本武揚らと出会い、親交を深めています。
また、外国との触れ合いは、友厚に洋行への興味を抱かせました。文久2(1862)年、友厚は幕府軍艦・千歳丸に乗船。上海へと渡る戦中で、長州藩士・高杉晋作と出会っています。
薩英戦争で交渉活動にあたる
文久3(1863)年、薩摩とイギリスとの間で薩英戦争が勃発。友厚は開戦に先んじてイギリスに汽船ごと拿捕されてしまいました。
捕虜となった友厚ですが、決して卑屈になってはいません。
むしろ代理公使ニールと艦隊司令官キューパーの尋問に毅然と抗弁。薩摩藩の手強さを巧みに主張し、講和に一役買っています。
その後、横浜に護送された友厚は、幕府の通訳・清水卯三郎に引き渡されます。
当然、友厚は薩摩への帰国を考えていました。
しかし船ごと拿捕された友厚に対し、藩は処罰する方針を固めます。
さらに国許では友厚に対し、イギリス密航のためにわざと捕まったという風聞さえ流れていました。
罪人と見なされた友厚は、追われる身となったのでした。
幕府や藩の捕り方だけでなく、外国を忌み嫌う攘夷派からも狙われていました。捕まれば命の保障は無い状況です。
仕方なく、友厚は長崎に入って潜伏生活を送ります。
同地において友厚は商人・グラバーと交遊。緊迫した世界情勢に触れることで、諸外国との関わりを意識します。
さらに長崎で薩摩藩士・野村盛秀と遭遇。野村は友厚の罪が許されるよう、藩に弁明書を提出しています。
翌元治元(1864)年の夏頃、友厚の罪は許されて赦免。無事に帰参が叶うこととなりました。
ヨーロッパ留学とパリ万博への出品
赦免から間もなく、友厚は藩庁へ上申します。
藩への上申書には「富国強兵」をはじめ、貿易や欧州への留学生派遣が綴られていました。
当時の友厚は世界へ意識を向けています。
友厚は世界での見聞を広めたいと意識していました。
慶応元(1865)年、薩摩藩遣英使節団の一員として渡欧。紡績機械や武器の購入を行い、商社合力について学んでいます。
友厚は当時世界最大の紡績機械メーカーであったプラット&ブラザーズ社に、薩摩の工場設計と技術者の派遣を依頼。
これがのちに薩摩藩主の島津忠義によって日本初の洋式機械紡績工場である鹿児島紡績所として建設され、今では世界文化遺産となっています。
友厚は留学中にユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン内の記念碑に名前を刻み、ベルギーでモンブラン伯爵と貿易商社設立の契約に調印しています(結果は失敗)。
翌慶応2(1866)年に帰国した友厚は、御小納戸奉公格に昇進。同時に薩摩藩の会計係して実業家として歩み始めました。スコットランド出身の武器商人「トーマス・ブレーク・グラバー」と合弁でドック(小菅修船場)を長崎に建設。近代化の足跡を今に残しています。
慶応3(1867)年、パリで万国博覧会が開催されます。
薩摩藩も万博に「日本薩摩太守政府」の名前で薩摩焼などを出品。参加については、友厚の藩当局への建言が大きく関わっていました。
さらに友厚は、貴族であるモンブラン伯爵と万博参加を進めていたのです。
モンブランは「薩摩琉球国勲章」の立案を考案。薩摩はナポレオン三世らに勲章を贈呈しています。
結果、薩摩は対外的に独立的地位を持っていることを宣伝しています。
友厚の行動は、対外的に薩摩の影響力をアピールすることに貢献していました。
ちなみに幕府側の一団には渋沢栄一が随行していました。間接的ですが、二人は関わり合いを持っていました。
新政府の下、大阪の復興に尽力
明治新政府で参与に就任
慶応4(1868)年、戊辰戦争が勃発。薩摩と長州を中心とする新政府が旧幕府打倒に成功しています。
新政府は、政治において新体制を発足させます。
政治の中心に総裁・議定・参与の三職が設置。友厚は働きが評価され、参与を拝命しています。
薩摩藩においては、他に西郷隆盛や大久保利通、小松帯刀らも参与に就任。友厚も彼らに並ぶほどの出世を遂げていたことがわかります。
友厚は新政府において外国事務掛や外国官権判事を担当。外国との交渉任務に従事することとなりました。
実際に友厚は実際に堺事件やパークス襲撃事件などの処理に当たっています。
当時の友厚は、大阪判事も兼任して同地に在勤。大阪港の波止場建設や浚渫工事にも携わり、開市に伴う貿易拡大に取り組んでいます。
大阪に造幣局を誘致する
かつて大阪は「天下の台所」と言われ、経済の中心地でした。
しかし新政府の方針により、同地の経済は低迷します。
新政府は一時金本位制を採用して、銀目廃止を決定。さらに藩債整理により、大阪商人の資産は大きな損失を被っていました。
友厚は大阪の経済を復興すべく活動しています。
前述の活動に加えて造幣寮(現在の大阪造幣局)の誘致に成功。同所の建設を進めていきました。
明治2(1869)年5月、友厚は会計官(現在の財務省)権判事への異動と横浜転勤を命じられます。政府も友厚の働きを大いに評価した結果でした。
しかし大阪では、官民あげて友厚の異動に対する反対運動が展開されます。
友厚の部下である外国事務局の局員151名が留任嘆願書に署名。政府に訴えを起こしています。
もはや友厚は、大阪においてなくてはならない存在となっていました。
大阪株式取引所、大阪商法会議所を設立
友厚は、明治2(1869)年に退官。日本の近代化を外から支える道を選びます。
同年には金銀分析所を設立、また、鉱山業にも乗り出していき、明治6(1873)年には鉱山管理会社である弘成館を設立しています。
大阪株式取引所の設立
友厚は、大阪の経済の充実から国家に資する方向を目指します。
政府は明治7(1874)年に株式取引所条例を発布し、東京と大阪に各一ヶ所ずつの取引所が設置。しかし条例は当時の経済状況とは相入れない政策だったことで、友厚は実施延期と改正を政府に要望します。
結果、政府は条例の改正を行い、明治11(1878)年5月に改めて株式取引所条例が出されました。この条例発布を受け、友厚は翌6月に「大阪株式取引所」(現在の大阪取引所)を設立しています。
大阪商法会議所の設立
続いて同年、大阪商法会議所(現在の大阪商工会議所)も設立。設立の趣旨は、大阪の実業家の相互扶助により、利益増大と大阪の繁栄を目指したものでした。
創立メンバーには、友厚のほか鴻池善右衛門や三井元之助といった錚々たる面々です。
友厚は初代会頭に就任。大阪商人をまとめ上げ、同地から富国強兵を推進していくこととなりました。
神子畑鉱山
なお、近年に友厚が神子畑鉱山(兵庫県朝来市)の鉱脈探しを指示していたことがわかっています。
神子畑鉱山の歴史は古く、800年頃から鉱山として開拓されていたといいます。明治11(1878)年に有望な銀の鉱脈が発見されたため、近代鉱山開発が進んでいきました。
退官後も政府要人と関わりをもつ
大阪の街と関わる一方、友厚は退官後も政府要人との関わりを持っていたようです。
明治8(1875)年の大阪会議の開催は友厚が斡旋したとされています。また、明治14(1881)年には開拓使官有物払い下げ事件に関与しています。
当時の友厚は、世間から明治の政商として見られていました。
大阪商業講習所(大阪市立大学)を設立
次に友厚は、商業学校の設立を計画します。
大阪より先に、すでに東京では森有礼が商法講習所を設立。近代国家建設と商業の発展のためには、商業学校は必要な教育機関でした。
明治13(1880)年、友厚と鴻池善右衛門や広瀬宰平らは創立員として、私立大阪商業講習所を設立。同所では簿記や経済学や算術は勿論、算術や英語、中国語を学ぶカリキュラムが組まれていました。
明治15(1882)年には、同所は大阪府立商業講習所に改称。明治18(1885)年に大阪府立商業学校となり、現在の大阪市立大学及び大阪市立天王寺商業高校へと続いています。
近代の大阪の発展に貢献した友厚ですが、体は病魔に蝕まれていました。同年、友厚は東京の別荘で病のために世を去りました。享年五十。
葬儀は大阪で行われ、多くの関係者が参列したと伝わります。大正3(1914)年には、大正天皇が大阪に行幸。その際に正五位が友厚に追贈されています。
【主な参考文献】
- 宮本又次『五代友厚伝』(有斐閣、1981年)
- 大阪商工会議所HP 五代友厚
- 鹿児島県HP 薩摩出身の実業家・五代友厚について紹介します
- 国立国会図書館HP 近代日本人の肖像「五代友厚」
- 大同生命HP 五代友厚と広岡浅子
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