「高杉晋作」奇兵隊を創設した長州の麒麟児!陸海を縦横無尽に駆けた若き俊英

 動乱の幕末は、のちに「英雄」とも称される多くの人材が輩出された時期でもありました。いずれも歴史上、劇的といわざるを得ない役割を果たしており、いまなおその生き様が現代の私たちに大きな影響を与え続けています。特に「志士」と呼ばれた幕末の運動家たちは高い人気を誇っていますが、その性質上若くして散った人物も多いのは周知の通りです。

 そんな志士のなかには、「もし長生きしていたら日本史はどう変わっただろうか」と想像せずにはいられないような人材がいます。その筆頭格の一人が、長州の高杉晋作(たかすぎ しんさく)ではないでしょうか。

 大胆にして緻密な戦略家でありながら、どこか達観したような遊び心と粋を感じさせる幕末の麒麟児。今回はそんな、高杉晋作の生涯を概観してみることにしましょう。

出生~各国留学時代

 高杉晋作は天保10年(1839)8/20、萩藩士・高杉小忠太春樹の嫡男として長門国萩菊屋横丁(現在の山口県萩市春若町~南古萩町のあたり)に生を受けました。

 もっとも有名な名である「晋作」は通称を指しています。諱は「東一」や「和介」。字は「暢夫(ちょうふ)」、号には「東行(とうぎょう)」や「楠樹」であり、「東洋一狂生」「西海一狂生」「些々生」「黙生」「楠樹小史」などを名乗っています。

 弘化4年(1847)、晋作は8歳で吉松淳蔵の漢学塾に通い、ここでのちの久坂玄瑞(くさか げんずい)と出会いました。14~15歳頃に藩校・明倫館に入学しましたが、この時期、学問より剣術に打ち込んだことが知られています。藩の師南役・内藤作兵衛に師事して柳生新陰流を学び、のちに免許皆伝を受けています。

 安政4年(1857)、晋作が18歳の頃に藩から学費を支給される入舎生となり、同年に吉田松陰の松下村塾に入塾しました。同塾ではのちに維新回天の原動力となる多くの人材を輩出したことが知られていますが、松陰は晋作の「識」を特に評価し、久坂玄瑞と並ぶ松門の双璧と称されたといいます。

松下村塾
現存している吉田松陰の私塾・松下村塾(山口県萩市)

 翌安政5年(1858)には藩命により江戸へと遊学、昌平黌(しょうへいこう。江戸幕府直轄の学校。)などで学びました。

 安政6年(1859)、安政の大獄により、師である吉田松陰が捕縛されると、晋作は玄瑞らとともに萩の野山獄に収監されていた松陰に、その義挙計画を暴挙だとして戒める意見を書簡にしたためました。しかし松陰はこれに対し「僕は忠義をする積り、諸友は功業をなす積り」と返答し、同年5月に江戸へと移送されました。

安政の大獄のイメージイラスト
安政の大獄は、日米修好通商条約に調印したことに反発する尊王攘夷派に対し、大老の井伊直弼が加えた過酷な弾圧事件。

 晋作は仲間らとともに松陰の世話に奔走しましたが、政治犯との接触を憂慮した国許から帰国命令が出されます。晋作が江戸を出立した直後の10月27日、松陰は江戸伝馬町の牢で処刑。安政の大獄における最後の犠牲者となりました。

 翌万延元年(1860)、晋作は山口町奉行・井上平右衛門の次女・雅(雅子)と結婚。軍艦教授所に入学し明倫館の舎長となりました。

 同年4月、晋作は海軍修練を目的として長州藩の洋式帆走軍艦・丙辰丸で江戸に向かいます。8月には東北遊歴に出立、この期間に笠間で加藤有隣、信州松代で佐久間象山、越前福井で横井小楠らに出会い、晋作の知見を大いに広げる出来事となりました。

 文久元年(1861)には長州藩世子・毛利定弘の小姓役に就任し、翌文久2年(1862)5月には藩命により、薩摩の五代友厚らとともに上海に渡航。清国が欧米列強に植民地化されていく現実や、太平天国の乱を実見した体験から日本の現状に強い危機感を抱くようになりました。

 7月に帰国した晋作はこれらを藩主へと報告、折しも機運が高まっていた尊王攘夷運動に本格的に取り組むようになり、12月には江戸・品川御殿山に建設中だった英国公使館を焼き討ちするという実力行使に打って出ます。

 文久3年(1863)正月には久坂玄瑞・伊藤俊輔(博文)らと松陰の遺骨を現在の松陰神社(東京都世田谷区若林四丁目)に改葬。焼き討ち事件で帰藩命令を受けた晋作は、同年3月には藩へ10年間の暇を願い出て、剃髪して「東行」を名乗りました。

 これには晋作が敬愛した西行法師の、風雅に生きた人生とは逆方向へと進む決意を込めたともいわれています。

下関戦争~功山寺挙兵


 萩・松本村に隠居していた晋作でしたが、5月10日、朝廷からの攘夷決行期限により長州藩は関門海峡を航行した外国船を砲撃。その報復で勃発した下関戦争では、米・仏軍に対しほとんどなすすべなく敗北しました。

 これを受けて藩主・毛利敬親は6月6日、急きょ晋作を下関防衛任務に抜擢。翌7日、晋作は新たな兵力として身分の上下に関係ない志願兵から成る「奇兵隊」を結成。武士と民兵の混成部隊として、長州藩の武力を牽引していくこととなります。

奇兵隊の隊士たち
奇兵隊の隊士たち(出所:wikipedia

 晋作は下関総奉行手元役・政務座役・奇兵隊総督を歴任しましたが、8月に奇兵隊士と長州藩正規兵の撰鋒隊士が衝突して死者を出す教法寺事件が勃発。この責により晋作は奇兵隊総督を罷免されますが、10月には160石の新知行を与えられ奥番頭役に任命されます。

 これに先立って京都では八月十八日の政変により朝廷から長州藩勢力は一掃されており、翌文久4年(1864)1月には京都への進発問題をめぐって来島又兵衛と対立。

 晋作は脱藩して京に潜伏しますが、桂小五郎の説得により帰藩。この罪状で萩・野山獄に収監されますが、同年6月に釈放・謹慎。7月には禁門の変で長州藩が敗退し、来島又兵衛や久坂玄瑞ら多くの人材を失いました。

 8月には英・米・仏・蘭の四か国連合艦隊が下関を砲撃し砲台を占拠。赦免された晋作は和議交渉の任務に就き、連合国側が提示した領土の租借を断固としてはねつけました。

下関戦争で連合国に占拠された長府の前田砲台
下関戦争で連合国に占拠された長府の前田砲台(出所:wikipedia

 当時の長州藩は禁門の変によって朝敵とみなされており、藩論は幕府恭順方針の保守派(俗論派)と、晋作らの改革派(正義派)とに二分されていました。優勢だった保守派は藩の主導権を握り改革派を弾圧、晋作にもその危険が及んだため同年10月に北九州方面へ一時退避しました。

 ほどなく帰還した晋作は12月15日、藩内の主導権を掌握すべく功山寺において決起。この時晋作に従ったのは伊藤俊輔率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊のわずか80名余りだったといいます。

 晋作は電光石火の作戦行動で下関の新地会所を制圧。18名の決死隊を編成して三田尻の海軍局を急襲し、各艦長に改革派としての決起を迫って軍艦3隻を手中に収め、下関に開港してまたたくまに一帯を勢力下に収めました。

 この晋作の動きにやがて長州藩諸隊も合流、元治2年(1865)3月には保守派勢力を排斥し、藩内の実権を握ることに成功します。晋作は来るべき第二次長州征討に備え、挙藩軍事態勢の構築に邁進したのでした。

 しかし下関開港によって攘夷派や保守派残党から命を狙われ、再びの脱藩で四国方面へ退避。桂小五郎の仲介で帰藩すると、9月に小五郎とともに海軍興隆用掛に就任。10月には下関で坂本龍馬らと第二次長州征討への対策を協議しました。

四境戦争~最期

 慶応2年(1866)1月、土佐の仲介によりついに薩長同盟が締結。同年6月の四境戦争(第二次長州征討)において、晋作は海軍総督として丙寅丸を駆って戦いました。

 周防灘で幕府艦隊に夜襲をかけこれを撃退、陸戦隊の第二奇兵隊と連携して周防大島を奪還。長州艦隊を率いて小倉領を攻撃・占領するなど馬関海陸軍参謀として活躍しましたが、同年10月に体調悪化によりこの職を辞しました。

 晋作は結核に罹っており、下関市桜山で療養生活に入ります。しかし慶応3年(1867)4月14日、満27歳の生涯を閉じました。その魂は山口県下関市吉田の東行庵に眠り、多くの奇兵隊士らの墓もまたここに建てられています。

高杉晋作の墓所がある東行庵(山口県下関市吉田)
高杉晋作の墓所がある東行庵

おわりに


 陸海を縦横無尽に駆け、たった一人で長州藩を動かしたといっても過言ではない高杉晋作。幕末において「麒麟児」のたとえがこれほど似合う志士は、彼をおいていないかもしれません。

 また享年27歳という若さにも驚きを禁じ得ず、それだけにもし晋作が生きていれば、という想像をせずにはいられないのではないでしょうか。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 『日本人名大辞典』(ジャパンナレッジ版) 講談社
  • 萩市観光協会公式サイト 高杉晋作

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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