「古河市兵衛」豆腐の行商人から鉱山王に駆け上がった男!足尾銅山鉱毒事件の当事者にして、古河電工の生みの親

古河市兵衛の肖像写真(出典:<a href="https://www.ndl.go.jp/portrait/" target="_blank">国立国会図書館「近代日本人の肖像」</a>)
古河市兵衛の肖像写真(出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
豆腐の行商人から身を起こし、渋沢栄一の事業を助けるほどの商人となった人物がいます。のちの古河財閥の創業者・古河市兵衛(ふるかわ いちべえ)です。

市兵衛は庄屋の家に生まれながらも家業は没落。継母から虐げられて育ち、幼くして奉公に出されます。やがて市兵衛は東北地方で修行を開始。小野組の番頭に見込まれて養子となり、生糸や鉱山を扱う商人となりました。

小野組の倒産では無一文となりますが、渋沢栄一の援助で再び鉱山経営を開始。世界有数の銅山・足尾銅山を育て上げました。しかし足尾銅山鉱毒事件が発生。市兵衛たちは苦境に立たされることとなります。

市兵衛は何を目指し、どう生きてきたのでしょうか。古河市兵衛の生涯を見ていきましょう。

豆腐の行商と借金の取り立て

豆腐の行商人

天保3(1832)年、古河市兵衛は京都の岡崎村で、木村長右衛門の次男として生を受けました。幼名は巳之助と名乗りました。

生家は醸造業を営み、代々庄屋を務めていた家柄でした。しかし市兵衛の父・長右衛門の代に没落。父の代には豆腐屋を営んでいたようです。市兵衛7歳のときに母の「みよ」が病没し、翌年には継母「とわ」が家に入りました。市兵衛は「とわ」にひどくいじめられたと伝わります。

市兵衛は8歳で京都烏丸の鋳物師・美濃屋に奉公を始め、9歳から生活費を稼ぐために働くことを開始。豆腐を行商して売り歩く中、豆腐桶をひっくり返されるいじめにも遭っています。市兵衛は鞍馬山の毘沙門天に立身出世を祈るなど、辛酸をなめた幼少期を送ることとなりました。

13歳の時、二人目の継母「まさ」が家に入ります。そして「まさ」が病に倒れて、陸奥国盛岡から継母方の叔父・木村理助が見舞いに訪れてきたことで人生の転機となります。

理助は東北地方の盛岡で、井筒屋支配役として勤務。本業の傍ら、高利貸しも営んでいました。市兵衛は理助の元で修行することを希望し、新たな土地での再出発を夢見て、嘉永2(1849)年に盛岡へと向かうのです。

借金の取り立て人から小野組番頭の養子となる

盛岡で市兵衛は、理助の仕事を手伝います。仕事内容は高利貸しの理助のもとで、貸金を取り立てるというものでした。三日間何も食わずに仕事に励み、吊るしてある昆布を舐めるだけで過ごしたこともあったようです。まだ少年の市兵衛にとっては苛烈極まる仕事だったことがうかがえます。

20歳のとき、市兵衛は南部藩の御用商人・鴻池屋伊助店(草間直方が起こした店)に奉公。手代として働き始めます。しかし同店はまもなく倒産。再び理助のもとに戻りました。

ほどなくして市兵衛は、再び運命の出会いを果たします。安政4(1857)年、生糸の買い付けで京都小野組の番頭・古河太郎左衛門重賢が南部藩を訪問し、市兵衛の商才を見抜きます。理助も市兵衛を推挙し、太郎左衛門の養子として入籍。小野組の仕事を手伝うこととなりました。

渋沢栄一との関わり

第一国立銀行設立に関わり、渋沢栄一と出会う

当時の太郎左衛門は、過去に三人の養子を迎えていました。市兵衛が使い物にならなければ、離縁される可能性は高い縁談です。決して将来が約束されたわけではありませんでした。

小野組に入った市兵衛は、様々な仕事に従事し、生糸の輸出、米穀や蚕卵紙において商才を発揮。その才能を認められて小野組における立場を固めていきます。明治維新においても目ざとく行動。東北地方の生糸を安く買い上げて横浜に送り、莫大な利益をあげています。

豪商・小野善助が築地に開設した小野組築地製糸場の錦絵(歌川芳虎 画)
豪商・小野善助が明治3年に築地に開設した小野組築地製糸場の錦絵(歌川芳虎 画)

しかし明治になって、商家に暗雲が立ち込めます。明治政府は公金取扱業務を変更し、小野組も政策の影響を受けて壊滅的な打撃を受けました。市兵衛はこれに引き下がらずに、陸奥宗光の元へ談判を決行。政府への引き上げ金減額を求めています。

明治6(1873)年には、渋沢栄一が日本最古の銀行となる第一国立銀行を設立し、市兵衛も10万円を投じています。この時から渋沢との関わりが始まりました。

小野組の倒産

明治7(1874)年には、市兵衛の今後を決める重要な転換点が訪れました。小野組が秋田県内の阿仁・院内の鉱山経営を一手に担当。市兵衛が責任者に任命されます。当時の市兵衛は小野組の番頭を務めていました。管轄は鉱山部と米穀部に及び、実際に小野組を取り仕切る位置にいたことが確認されます。

しかし、成功者となった市兵衛に思わぬ事態が巻き起こります。同年、政府は為替政策を変更。政策変更のあおりを受けたことで、小野組は倒産を余儀なくされました。

当時、渋沢の第一国立銀行と小野組は取引がありました。第一国立銀行は、小野組に無抵当の状態で百数十万円を貸し付けていた状態です。小野組の倒産は第一国立銀行の連鎖倒産を予感させました。

しかしこのときに市兵衛は誠実な対応を取っています。小野組が倒産すると、資産を第一国立銀行に提供して、自分の給料や貯金までを全て差し出しているというから驚きです。その結果、第一国立銀行の損失は最小限に抑えられ、連鎖倒産は無事に防がれたのです。

渋沢は市兵衛の行ないに多いに感じ入ったといいます。『渋沢栄一伝』では「勇気ある人でなければできないことであり、深く感心した」と記しています。

古河財閥の源流となった「古河本店」の設立

古河本店を立ち上げ、鉱山経営を行う

小野組が倒産した後、市兵衛は独立した商人となりました。当時の成長産業であった鉱山事業への参入を計画し、秋田県や新潟県の鉱山確保に動いています。

鉱山事業においては渋沢が援助を約束してくれますが、肝心の政府からの許可が降りませんでした。そこで市兵衛は小野組時代から関わりのある陸奥中村藩・相馬家を名義人に擁立し、市兵衛が下請けとして鉱山経営を行う立場を取っています。

明治8(1875)年、市兵衛は東京の深川に古河本店を設立。市兵衛は政府から新潟の草倉鉱山を払い下げを受けました。市兵衛のもとでの鉱山経営は順調に推移。翌明治9(1876)年には、渋沢栄一を訪問し、北海道での鉱山経営のための資本として、五万円の融資を受けています。

足尾銅山の開発に着手する

明治10(1877)年には足尾銅山を買収しています。鉱山経営の共同経営者には、錚々たる面々が名を連ねています。相馬家家令・志賀直道(志賀直哉の祖父)、のちには渋沢栄一も共同経営者に加わりました。

当時の足尾銅山は、決して有望な銅山ではありませんでした。江戸時代の無計画な採掘によって、旧坑が多数存在。生産性は低いと考えられていたのです。そのため、足尾銅山は一時官営化し、政府の御雇い外国人・ゴットフリイの調査により、民間に払い下げとなった経緯がありました。

しかし市兵衛は足尾銅山に可能性を見出します。経営不振の原因は、無計画な採掘にあると見抜いていました。新たな鉱脈を見つけるべく、市兵衛は以下のように、あらゆる手を尽くします。

  • 坑道を開発し、トロッコを走らせる。
  • 照明は油で取る。
  • 蒸気ポンプを使用。
  • 電話を設置する。
  • 電気による製銅法を用いて水力発電所を設置。

1895年頃の足尾銅山
1895年頃の足尾銅山

足尾銅山鉱毒事件の発生

足尾銅山の経営は、当初は厳しいものでした。採掘の現場を仕切る山師たちが反発。市兵衛は実際に経営を行うのは、鉱山獲得から半年後のことでした。

その後も四年の間、成果が上がらない日々が続きます。坑長(現場責任者)も三人交代し、四人目の希望者が現れない状態でした。

市兵衛は思い切って人事を見直します。明治13(1880)年、まだ若い甥の木村長兵衛を坑長に任命。翌明治14(1881)年には、長兵衛らによって大鉱脈を発見します。

足尾銅山の経営は順調に推移していきました。大鉱脈が次々と発見され、銅の生産量は飛躍的に高まります。足尾銅山は、日本の産銅量の約半分を産出。70%以上の銅が海外に輸出され、日本有数の銅山へと急成長を遂げます。現在の古河グループに至る事業基盤は、足尾銅山の成長と共に形作られていきました。

しかし突如として、市兵衛の前途に暗雲が立ち込めます。足尾銅山において鉱毒問題が発生。日本の代表的な鉱山公害として、歴史に名を刻むこととなります。

苦情は明治15(1882)年ごろから出ていました。渡良瀬川の魚が減り、田畑の実りも悪くなっていたと伝わります。鉱毒の被害が加速すると同時に、周辺の農民が抗議活動を展開。警官が出動する騒ぎになりました。

古河電工の立ち上げ

古河本店は鉱山経営を基盤に据えていましたが、市兵衛は常に危機感を抱いていたようで、経営の多角化にも挑戦していきます。

明治17(1884)年には本所溶銅所を設置し、精銅の輸出拡大と、銅製品の国内市場開拓を目指していきました。本所溶銅所はのちに古河電気工業へと継承、発展していくこととなります。

しかし鉱毒事件はまだ終わっていませんでした。明治24(1891)年には、衆議院議員・田中正造が国会で足尾銅山の鉱毒被害について演説。厳しく弾劾しています。

明治30(1897)年には、田中は足尾銅山創業停止請願運動を開始。市兵衛の生涯に暗い影を落とし続けました。明治33(1900)年、市兵衛は功績が認められて従五位を贈られます。同年、市兵衛はようやく髷を落とします。髷を落とすにあたり、散髪料は50円という高額なものでした。

明治34(1901)年、市兵衛の妻・為子が神田川に入水して自殺。足尾銅山鉱毒事件の追及によってでした。市兵衛の失意は如何程だったか計り知れません。そして妻の後を追うように市兵衛は明治36(1903)年、東京の自宅で世を去りました。享年七十二。

おわりに

古河はその後、日露戦争前後の企業ブームに乗って好調に業績が推移し、古河財閥を形成。第二次世界大戦後には解体されるものの、古河財閥の流れを汲む古河グループとして、現在に至っています。

古河グループに所属する主な会社としては、古河機械金属・古河電気工業・富士電機・富士通・横浜ゴム・日本ゼオン・朝日生命保険・みずほ銀行などなど…。

こうした錚々たる大企業の生みの親だったなんて、まさに古河市兵衛の偉大さが感じ取れるのではないでしょうか。



【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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