「大隈重信」義足となりながらも懸命に国家のために奉職!早稲田大学の創設者にして、最高齢の総理大臣

明治政府の主要ポストにありながら下野し、言論活動に活路を見出した人物がいます。
佐賀藩士であった大隈重信(おおくま しげのぶ)です。


幕末、重信は藩を脱藩して上京。大政奉還を建議すべく活動し、一時は謹慎処分となっています。
明治政府においては参議となって富国強兵路線に邁進。明治十四年の政変で下野すると、立憲改進党を結党して政党政治を目指しました。
外務大臣として条約改正交渉にあたると、過激派によって襲撃。義足での生活を余儀なくされます。
幾多の毀誉褒貶を経て、重信は最高齢の総理大臣として内閣を形成。絶大な権勢を誇りながら、元老入りまで求められました。


重信は何を目指して戦い、どう生きたのでしょうか。大隈重信の生涯を見ていきましょう。


佐賀出身の政治家

佐賀藩士の子として生を受ける

天保9(1838)年、大隈重信は肥前国の佐賀城下で佐賀藩士・大隈信保の長男として生を受けました。母は三井子です。幼名は八太郎と名乗りました。


重信の生家は、300石の知行を持つ大身です。
大隈家は佐賀藩において代々石火矢頭人(砲術長)を務める家で、上士(上級藩士)の家柄でした。


重信も長男として、周囲からは大きな期待が寄せられていたようです。
天保15(1844)年、重信は藩校・弘道館に入学。本格的な儒学教育を受けることとなります。


しかし生来、開明的な重信には違和感がありました。
安政元(1854)年、儒学教育に反発した重信は改革を主張。翌安政2(1855)年には、藩校で騒動が起きたことで退学処分が下されました。


当時の重信は、枝吉神陽から国学を学んでいます。
枝吉は、東の藤田東湖と並び称されたほどの国学者でした。
重信は枝吉が結成した尊皇派集団「義祭同盟」にも参加。参加者には江藤新平や副島種臣らの姿もありました。


佐賀藩士時代の大隈重信
佐賀藩士時代の大隈重信


西洋の学問を学び、その思想に大きな影響を受ける

重信は国学だけに傾倒せず、先進的な学問を学んでいます。
文久元(1861)年には、藩主・鍋島直正にオランダ憲法を進講。蘭学寮を合併した弘道館教授に就任します。
しかし実際の仕事は、諸藩との交渉任務にありました。


文久2(1862)年には、アメリカ人宣教師・チャニング・ウィリアムズに師事。英語や数学をはじめとした洋学を学んでいます。


幕末において、重信は積極的な動きを取ります。
まず長州藩への協力や幕府との調停周旋を提唱。しかし藩政に反映されることはありませんでした。


慶応元(1865)年には、長崎の五島にあった佐賀藩校英学塾の「致遠館」に入塾。オランダ人宣教師・フルベッキに師事しています。


同塾で、重信は教頭格となり、後進の指導にも当たっています。同時に京都と長崎の往来を開始。尊王派との交わりを強め、新しい時代を築くべく活動していきます。


慶応3(1867)年には、将軍家に大政奉還上申を計画。脱藩して上京するに及んでいます。
しかし重信は捕縛。国許に連れ戻されてしまいます。
幸運にも謹慎処分で済んだものの、重信は諦めませんでした。
ほどなく前藩主・直正と面会して、倒幕運動への参加を上申。しかし受け入れられることはありませんでした。


明治政府で参与となる

慶応4(1868)年1月、鳥羽伏見の戦いが勃発。旧幕府は敗走し、薩摩や長州が中心となって新政府が樹立されました。

当然、佐賀藩にも影響が出ています。
天領であった長崎からは、幕府の役人が撤退。重信は藩命により長崎に赴任して管理に当たっています。


2月に新政府の井上馨が長崎に赴任。重信は新政府に従う形で引き継ぎに応じています。
3月には重信は新政府参与を拝命。外国事務局判事を務めることとなりました。


重信は持ち前の交渉能力を発揮していきます。浦上四番崩れのキリシタン弾圧の問題では、イギリス公使・パークスと交渉。問題を一時的に解決しています。


同年12月には功績を買われ、薩摩藩の小松清廉の推挙によって外国官副知事に就任。対外交渉事務において、新政府の枢要な地位を任されています。


新政府で大蔵省の実権を握る

明治2(1869)年、二官六省が設置されると大蔵大輔に就任。大蔵省を束ねる立場となり、日本の財政問題に取り組んでいきました。


明治時代に建てられた大蔵省の庁舎
明治時代に建てられた大蔵省の庁舎

大隈邸には大蔵省の官僚となっていた渋沢栄一や井上馨らが集結。重信は「築地梁山泊」と称されるほど、人心を集めていました。


重信は政府の中でも急進的な開明派です。政府の殖産興業路線のもと、富岡製糸場や鉄道建設に従事。日本の近代化を主導していきます。



明治4(1871)年には参議を拝命。新政府の最高機関の一人として、政策決定に影響力を持つようになりました。
大久保利通ら岩倉使節団が条約改正交渉のために出立すると、重信は留守政府に接近。大蔵省の実権を掌握することに成功します。


明治6(1873)年に使節団が帰国。征韓論を巡って政府上層部は二分する争いに突入していきます。
西郷隆盛らは留守政府の面々は征韓論を主張していました。


通常であれば、重信も西郷らに同心するかに思われました。
しかし重信は征韓論への反対を表明。下野する西郷らとは対照的に、政変に巻き込まれる事態を防いでいます。


政変後に重信は参議兼大蔵卿を拝命。政府において、大久保利通と並ぶ権勢を手に入れます。


明治十四年の政変で下野

政府において、重信は様々な攻撃に晒されます。
明治7(1874)年、重信は台湾問題で出兵路線を推進。出兵船を独断で確保しています。


左大臣・島津久光は重信らの免職を要求。重信は病を理由に辞表を提出するなど、駆け引きが行われます。結局、久光の意見は却下され重信の辞職はありませんでした。


明治8(1875)年には、条約改正実現と内需拡大の意見書を提出。重信は財政問題では第一線を走り続けていました。しかし大阪会議で木戸孝允と板垣退助が復帰。重信の辞職を要求するなど、足元が脅かされることになります。


当時、重信は大久保の庇護を受けていました。10月に久光と板垣が辞職。木戸も病が重くなったことで、重信は危機を脱しています。


明治政府は、相次いで指導者たる元勲を失っていきました。
明治10(1877)年に西南戦争が勃発。西郷隆盛は明治政府に敗北し、城山で自害しています。
明治11(1878)年には大久保利通が紀尾井坂で暗殺。明治政府の主導権は伊藤博文へと移ります。
重信も伊藤への協力を約束。当初は両者の間に緊密な協力関係が築かれていました。


明治13(1880)年、重信は会計検査院を創設。翌明治14(1881)年には統計院(統計局)を設立し、自らが院長となっています。重信は日本の近代化政策の中でも、重要なポストにあり続けました。


しかし同年、重信は政治的立場の転換点に立たされます。
参議間において立憲政体について会議が開催。重信は急進的な立場から、イギリス式の政党内閣樹立という案を提出します。


7月、開拓使官有物払い下げ事件が発覚すると、重信にリーク疑惑が持ち上がりました。
10月には重信の参議罷免が奏上されて裁可。重信は公職を辞して下野しています。


世にいう明治十四年の政変です。


立憲改進党、および早稲田大学の設立

政党政治実現のため、重信は在野の立場から政治活動を開始します。
明治15(1882)年に立憲改進党を設立。同党の党首となって、尾崎行雄や犬養毅らと行動を共にします。


同年には東京専門学校(早稲田大学の前身)を開校。学問の独立と活用を謳い、優れた人材の育成にあたることとなりました。
重信は在野にありながら、国会開設や学問に関する運動を展開していたのです。


大隈重信が開設した早稲田大学の前身・東京専門学校
大隈重信が開設した早稲田大学の前身・東京専門学校

外務大臣就任と大隈遭難事件

明治21(1888)年には、重信は外務大臣を拝命。秘書官には、のちに後継に指名する加藤高明を抜擢しています。
同年に黒田清隆内閣が成立すると、一度は留任。しかし重信の条約改正案が波乱を巻き起こします。


条約改正案は、領事裁判権撤廃と引き換えに、日本の司法官に外国人を任用するという内容でした。
同案は大日本帝国憲法に違反しており、激しい批判に晒されます。


明治22(1889)年、玄洋社の来島恒喜(くるしま つねき)が重信の馬車を爆撃。右脚を切断する重傷を負ってしまいます。いわゆる大隈遭難事件です。

一命は取り留めたものの、義足での生活を余儀なくされます。重信が担当していた条約改正は延期が決定。黒田内閣は総辞職となり、重信も辞表を提出しています。


第一次大隈内閣の成立

松隈内閣

辞職後は枢密3顧問官を拝命。しばらくは大きな活動にかかわらず、新聞上での執筆や演説に主軸を置いていきました。


明治29(1896)年には立憲改進党が進歩党に合流。重信も進歩党の中心的存在にあり続けたものの、党首とはなりませんでした。
同年、松方正義が第二次松方内閣を形成。重信は外務大臣として入閣し、変わらない存在感を示します。


明治30(1897)年3月、足尾銅山鉱毒事件が発生します。
重信は辞任した榎本武揚の農商務大臣も兼任。古河鉱業に鉱害対策の撤退を求めています。
10月に松方首相が地租増徴の方針を表明。重信は増徴に反対して辞表を提出し受理されました。


隈板内閣(第一次大隈内閣)の誕生


明治31(1898)年3月の秋銀議員総選挙において、進歩党は第一党に躍進。同6月には板垣の自由党と合同して「憲政党(けんせいとう)」が結党されました。結果、重信と板垣に組閣の大命が降下することとなります。


重信は内閣総理大臣を拝命。外務大臣を兼任した上で、板垣を内務大臣に据えた隈板内閣が成立します。
日本初の政党内閣の誕生でした。


※参考:第一次大隈内閣 閣僚名簿
職名氏名
内閣総理大臣大隈 重信
外務大臣大隈 重信 (兼任)
内務大臣板垣 退助
大蔵大臣松田 正久
陸軍大臣桂 太郎
海軍大臣西郷 從道
司法大臣大東 義徹
文部大臣尾崎 行雄→犬養毅
農商務大臣大石 正巳
逓信大臣林 有造
内閣書記官長武富 時敏
法制局長官神鞭 知常

しかし旧進歩党系と旧自由党系の人間で内紛が勃発。人事を巡る争いが表面化し、旧自由党の人間から一方的な解党宣言まで飛び出します。結果、10月に内閣は総辞職することとなりました。


政界から引退と復帰

しかし重信は諦めません。同年に旧進歩党が中心となって憲政本党を結党。明治33(1900)年、重信は憲政本党の総理(党首)に就任します。


しかし旧自由党派によって結成された立憲政友会派勢力を拡大。側近の尾崎行雄も政友会に参加しています。
次第に重信への引退を求める動きが活発化。党内においても改革派が力を持つようになりました。
明治40(1907)年、総理を辞任。しかしその後も党内の仲裁を求められています。


重信は、政治の第一線から距離を取った生活を送り始めます。
早稲田大学の総長に就任し、欧州文献の和訳事業に携わるなど、文化事業に関わっていきました。


しかし重信は依然として政界に必要とされていました。
明治43(1910)年、憲政本党銀に招待されて復帰を実現。遊説活動を再開して政治的な動きを活発化させています。


第二次大隈内閣

最高齢の総理大臣

大正3(1914)年、山本権兵衛内閣が総辞職。重信が首相候補者として注目を浴びることとなりました。
山縣有朋や井上馨ら元老も重信の首相就任に同意。重信は十六年ぶりに再び総理大臣に就任します。
重信七十六歳での第二次大隈内閣の成立でした。


※参考:第二次大隈内閣 閣僚名簿
職名氏名
内閣総理大臣大隈重信
外務大臣加藤高明 →大隈重信(兼任)→石井菊次郎
内務大臣大隈重信(兼任)→大浦兼武→大隈重信(兼任)→一木喜 德郎
大蔵大臣若槻禮次郎→武富時敏
陸軍大臣岡 市之助→大島健一
海軍大臣八代 六郎→加藤友三郎
司法大臣尾崎行雄
文部大臣一木喜 德郎→高田早苗
農商務大臣大浦兼武→河野廣中
逓信大臣武富時敏→箕浦勝人
内閣書記官長江木 翼
法制局長官高橋 作衞

大正4(1915)年には衆議院議員総選挙でも大勝。重信らは議席の過半数を占めています。
重信は国民に圧倒的な人気を持ち、強烈な支持を受けていました。


同年7月、大浦事件では関与を疑われますが、重信は否定。辞表を提出しますが、天皇から却下され、自らの政権を維持しています。


勿論、重信は政権維持のみに汲々としていたわけではありません。
強い責任感のもと、政治に関わり続けます。
大正天皇の即位大礼では、先立って階段の昇降練習を実施。片足が義足ながら、無事に儀式を遂行しています。


大正5(1916)年1月、重信が乗る馬車に爆弾が投擲。幸にも不発であったために被害を免れています。


重信は高齢でもあり、辞表を提出。退任時点で78歳という歴代総理大臣では最高齢でした。
重信は元老会議が首相選出に影響力を行使することに反発。辞表の中では加藤孝明を後継者として推薦していました。
しかし山縣ら元老は寺内正毅を選出。新内閣は寺内により組織されることになります。


事実上の元老

首相退任後、重信は表舞台から距離を置きはじめます。
演説は行わず、評論活動に主軸を移していきました。


大正7(1918)年9月、重信の発言が求められます。
天皇が寺内首相の後継について重信に下問をされました。重信は政界において、随一の重鎮として扱われていたのです。


山縣は重信を元老に加えることを模索し続けます。
重信は元老入りを拒否。しかし新聞等では重信を事実上の元老として報道していました。


大正10(1921)年の9月ごろから、重信は風邪気味のため静養することとになります。
やがて腎臓炎と膀胱カタルを併発。次第に衰弱していきました。


大正11(1922)年1月、重信は早稲田の自宅で死去。享年八十五。護国寺の大隈家墓所に葬られました。


日比谷公園での国民葬では、三十万人の市民が参列。沿道には百万人が並んだと新聞で報じられたほどでした。
死してなお、重信は偉大な政治家として尊敬を集めていたのです。



【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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