「摂関家」とは?意外に知られていない華麗なる一族たちの実態・歴史を解説!

桜ぴょん吉
 2021/12/09
戦国時代においても、武家の頂点は「征夷大将軍」、公家の頂点は「関白」でした。位の上では関白のほうが格上ですので、人臣最高位は将軍よりむしろ関白といえます。関白職は誰でも就けるものではなく、豊臣秀吉が関白になるまで、「摂関家(摂家とも)」と呼ばれる一族が独占していました。しかし、時代は戦国、下剋上の世の中。単に格が高いだけでは生き残れません。

そこで今回は、高貴すぎる一族「摂関家(せっかんけ)」の華麗なる経歴としたたかな戦国生き残り戦略をご紹介します。

摂関家とは?

藤原道長の子孫

摂関家とは、摂政・関白に任命された最高位の公家の家柄のことを指します。人臣最高位の摂政・関白は、代々、平安時代の権力者・藤原道長(生没年:966~1028年)の子孫が就く慣例でした。

戦国時代では、近衛・九条・二条・鷹司(たかつかさ)・一条の五家がそれに当たります。いわゆる「五摂家(ごせっけ)」です。

五摂家の略系図
五摂家の略系図

五摂家は、まず鎌倉時代に藤原家が近衛と九条に分かれます。そこから四代後に、近衛から鷹司が、九条から二条と一条が分家しました。

なお、近衛と九条に分かれた際、同時に松殿(まつどの)も分家しています。南北朝期までは松殿家からも摂政・関白が出ていましたが、足利義満治世期以降は見られず、戦国時代には一度断絶しています。慣習的に、松殿家は五摂家には含めません。

摂政・関白の仕事

摂政の仕事(平安時代)

摂政の仕事は大きく以下の二点です。

  • 1、天皇の決裁代行
  • 2、公家の昇進決定

一点目について、幕府が出来る前、全国のトラブルを処理していたのは朝廷でした。軽微な問題であれば大臣たちが処理しますが、彼らの手にあまる重大問題は天皇に上がってきます。天皇が幼少で政治的判断ができない場合、決裁を代行したのが摂政です。

二点目も、公家の昇進や任官の決定権は天皇にあるのですが、天皇が幼少で人事の判断が難しい場合、摂政が代行しました。

関白の仕事(平安時代)

関白の仕事も大きく以下の二点です。

  • 1、天皇宛て文書の事前確認
  • 2、天皇の相談相手

一点目について、関白は天皇のもとに持ち込まれる決裁書類や手紙を事前にチェックできました。関白がNOと言った書類は天皇に回せず、関白からの修正要求も無視できませんでした。

二点目について、天皇が重大な政治判断をするとき、唯一関白だけが天皇から諮問をうけ意見を述べることができました。

これらから分かるように、関白自身は摂政のように決裁権を持っていませんが、これら二つの権限によって、ほぼ意図する通りに政治を行うことができました。

戦国時代の実態

強大な権力を持った摂政・関白ですが、そもそも朝廷の政治が機能してこその権力です。鎌倉時代末期から院政が始まり、室町幕府が京都にできた頃から、すでに天皇が政治の重大な決定を行う時代は終わっていました。

室町時代になると、「天皇の補佐」という仕事も将軍に奪われます。将軍家は「准摂関」として、圧倒的な武力と財力をバックに天皇の政治判断を補佐しました。この頃から、摂関家は本来の意味での仕事がほぼない状態になっていました。

戦国時代にかけて、摂関家の荘園が武士に荒らされ、収入が大幅に落ち込みます。仕事もないし金もなくなった摂関家は、生き残りをかけて様々な活動をはじめます。

摂関家の紹介

天下人に急接近!近衛家

近衛家の始祖は藤原基実(もとざね)です。彼の邸宅が近衛大路の北、室町小路の東にあったため「近衛家」となりました。「陽明(ようめい)家」とも言います。

近衛家は足利将軍家・戦国大名と積極的にかかわりました。将軍家とは、近衛稙家(たねいえ)の妹が12代将軍・足利義晴の正室になり、娘が13代将軍・足利義輝の正室になっています。また近衛前久は上杉謙信や織田信長、薩摩島津家と親しい関係でした。羽柴秀吉が関白に就任できたのも、前久の養子になったからです。

戦国時代の近衛家は他の家より財政的に豊かでした。財源となる荘園が宇治や摂津など京都近郊だったことと、室町将軍家と近い関係だったことから、十分な年貢収入がありました。そのため当主が京都近郊にとどまり、政治活動を続けることができました。

本願寺と蜜月関係!九条家

九条家の始祖は藤原兼実(基実の弟)です。彼の邸宅が九条大路の北、万里小路の東にあったため「九条家」となりました。「陶化(とうか)家」とも言います。

鎌倉時代は力を持っていましたが、室町時代は家督争いが相次いで影響力が弱まります。戦国時代になると、九条政基(まさもと)が家臣を斬殺し京都を追われる前代未聞の事件が起こります。彼は九条家領の和泉国日根荘に下向しますが、そこでも根来寺との争いに敗れます。許されて京都に戻ったものの、難しい立場が続きました。

九条家は石山本願寺と親しい関係です。政基の息子・尚経(ひさつね)は本願寺証如を猶子とし、その息子・稙通(たねみち)も本願寺顕如を猶子にしています。また九条幸家(ゆきいえ)は西本願寺・東本願寺双方に娘を嫁がせているなど、宗教界に影響力を強めました。

足利将軍家の盟友!二条家

二条家の始祖は九条良実(よしざね、兼実の曽孫)です。二条富小路に邸宅があったことから「二条家」となりました。「銅駝(どうだ)家」ともいいます。

二条家は応仁の乱まで最も力を持った家でした。二条良基が足利義満と良好な関係を築いたことで、以降も二条家が主に摂政・関白の地位につき、将軍とともに天皇を補佐する体制が続きました。しかし家督相続が上手くいかず、所領が荒らされたことから、戦国時代は影響力が落ちてゆきました。

二条尹房(ただふさ)は大内義隆を頼って周防国に赴いたものの、大寧寺の変に巻き込まれ殺害されます。幸いなことに長男の晴良(はれよし)は在京していたため難を逃れました。彼は足利義昭・織田信長と連携を強め、信長と浅井・朝倉の和睦を仲介するなど存在感を強めました。

信長が支援!鷹司家

鷹司家の始祖は近衛兼平(基実の曽孫)です。鷹司室町に邸宅があったことから「鷹司家」になりました。「楊梅(ようばい)家」ともいいます。

鷹司家は室町時代の当主が摂関になれないことが尾を引き、なかなか表舞台に出られず、天文15(1546)年に一旦断絶しました。その後天正7(1579)年、織田信長の後援で、二条晴良の四男・信房(のぶふさ)が再興しました。

信房は豊臣秀吉と親しく、徳川家とも娘を家光の正室にするなど血縁関係を結びました。江戸時代の鷹司家は無事に摂政・関白職に返り咲いています。

戦国大名も輩出!一条家

一条家の始祖は九条実経(兼実の曽孫、良実の弟)です。一条坊門に邸宅があったことから「一条家」となりました。「桃華(とうか)家」ともいいます。

室町時代の一条家は貧窮にあえいでいました。有名な一休宗純も、一条家の困窮を嘆く漢詩を詠んでいるほどです。原因は、土佐の幡多荘はじめ領地が武士に荒らされたためでした。そこで、応仁・文明の乱をきっかけに、当主の一条教房(のりふさ)自ら土佐に赴き、統治のたてなおしをはかりました。教房は結局土佐で亡くなり、本来なら一家は京都に戻るはずでしたが、三男の房家が土佐に残り武装化しました。

土佐一条家は朝廷や一条家本家と繋がりを持ち続け、自身も高位高官に就きながら、土佐では長宗我部氏に敗れるまで約80年もの間、盟主として国衆を束ねる異色の領主となりました。

おわりに

戦国時代に積極的な活動を見せた摂関家でしたが、江戸時代になると幕府の政策により天皇家周辺に押し込められます。再び外戚となった摂関家は、多くの知行を得、財政的には安定します。しかし、戦国時代の当主たちが見せたイキイキとした活動は、近世では見られなくなりました。その点で、戦国時代は貴重な機会ともいえるでしょう。

戦国大名の華々しい活動の影に、摂関家当主の息遣いを読み取ることで、戦国時代を一層奥深く楽しめるかもしれません。


【主な参考文献】
  • 池亨「戦国・織豊期の朝廷政治」(『一橋大学研究年報 経済学研究』33、1992年)
  • 日本史史料研究会監修『戦国時代の天皇と公家衆たち』(洋泉社、2015年)
  • 倉本一宏『藤原氏』(中公新書、2017年)
  • 樋口健太郎『摂関家の中世』(吉川弘文館、2021年)

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  この記事を書いた人
桜ぴょん吉 さん
東京大学大学院出身、在野の日本中世史研究者。文化史、特に公家の有職故実や公武関係にくわしい。 公家日記や故実書、絵巻物を見てきたことをいかし、『戦国ヒストリー』では主に室町・戦国期の暮らしや文化に関する項目を担当。 好きな人物は近衛前久。日本美術刀剣保存協会会員。

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