三英傑(信長、秀吉、家康)や足利将軍家は、天皇や公家とどのように関わったのか

桜ぴょん吉
 2022/05/20
三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)のイメージイラスト
群雄割拠・下剋上の戦国時代であっても、天皇や公家の存在は無視できません。自分で名乗るならいざしらず、「征夷大将軍」など権威ある官位を得るためには、天皇や公家との交渉は不可欠でした。一方、天皇や公家も経済的・軍事的な側面から武家に頼らざるを得ない状況が続いており、両者が関係を持つことは歴史の必然でもありました。

フィクションの世界では「権威主義の公家 vs 実力主義の武家」という構図がよく現れますが、実際はどうだったのでしょうか。今回は足利将軍家と三英傑(信長・秀吉・家康)の各政権が、天皇や公家とどのように付き合ってきたのかをまとめてみました。

公家になっちゃえタイプ1:足利将軍家

「准摂関」で天皇をサポート

まずは足利将軍家と天皇・公家との関係を見ていきましょう。

足利将軍家は、公家で最高位の摂関家に次ぐ立場「准摂関(じゅんせっかん)」として、天皇をサポートしました。将軍自身が内大臣や右大臣・左大臣など公家として高い地位に昇り、公家社会の政務にも関わりつつ、パトロン、かつ天皇の相談役として、代々天皇と公家社会を支えました。

室町幕府設立当時、天皇家が南朝と北朝に分かれて争っており、足利家が味方した北朝の天皇はまだ若く、世の中も不安定だったことから、しっかりしたサポートが必要でした。

争いで公家は散り散りになり、そこで初代将軍・足利尊氏の実弟で政治手腕にたけた足利直義(ただよし)が、天皇のサポート役をつとめます。この役目が二代将軍・義詮(よしあきら)や三代将軍・義満にも引き継がれていったのです。

ちなみに、室町幕府の大名のうち、清涼殿に昇殿できる高い地位を得ていたのは足利将軍家だけです。任官を制限することで、足利将軍家は武家に対して自己の権威付けをはかりました。

このようにして将軍家と天皇や公家は、持ちつ持たれつの関係にあったのです。

※足利将軍家官職遍歴(具体例:足利義政、文安6年に元服)
文安4~5(1447~48)年侍従
文安5~6(1448~49)年左馬頭
文安6~宝徳2(1449~50)年参議
文安6~文明5(1449~74)年征夷大将軍(兼任)
文安6~享徳4(1449~55)年右近衛中将(兼任)
宝徳2~長禄2(1450~58)年権大納言
享徳4~寛正2(1455~61)年右近衛大将(兼任)
長禄2~長禄4(1458~60)年内大臣
長禄4~文正2(1460~67)年左大臣

公家になっちゃえタイプ2:豊臣秀吉

摂関家の養子になり、公家と同化

足利家の方法に最も近い付き合い方をしたのが、豊臣秀吉です。

秀吉は足利家と同様、基本的に公家社会のシステムにのっとった政策をとります。関白になる際も、「摂関家の人しか関白になれない」という決まりは変えず、近衛前久の養子になる形で就任を果たしています。

また、足利将軍家的な公家付き合いも積極的に行いました。将軍家と同様に秀吉も公家や天皇と頻繁に贈り物をやりとりし、お互いの慶事(戦勝や男児誕生、新築祝い)を積極的に祝っていました。宮中にも出入し、天皇を聚楽第に招いたり、自分の能楽を披露したりと親しく交わるやり方も、将軍家と似ているところがあります。

一方、将軍家のように「足利氏だけ公卿になる」という官位の制限は行わず、逆に徳川家康の内大臣就任をはじめ、大大名を高い地位に就けました。高い地位といっても秀吉自身よりは下ですので、彼はむしろ公家社会のしくみを使って豊臣政権の強化をはかろうとしたようです。

※豊臣秀吉の官職遍歴
天正10~12(1582~84)年左近衛権少将
天正12~13(1584~85)年権大納言
天正13(1585)年3月~7月内大臣
天正13(1585)年7月~天正19(1591)年関白

無関心タイプ:織田信長

官職に興味なし、公家を従えようともしない

秀吉が公家社会に同化したのに対して、織田信長は天皇や公家に積極的に働きかけることはありませんでした。

三英傑の中では良くも悪くも、天皇や公家に対する関心が一番薄いのが信長です。フィクションでは、信長が天皇や朝廷といった「古い権威」を毛嫌いするような描写があります。しかし、史料から見た信長の態度は「嫌う」というより「無関心」に近いようです。

確かに信長は天皇や公家への援助は惜しみません。改元費用や天皇の生活費援助など、現在の価値で数千万円の資金援助を何度も行っています。また、季節の品や領地の特産品を天皇家に献上する様子も見られ、一見すると関係は良好のようです。公家の中でも近衛前久や山科言継、吉田兼見などが友人として知られています。

しかし秀吉のように公家を従えることも、高位高官を望むことも決してありませんでした。右大臣まで上り詰めたにも関わらず、信長が公家として儀式に参加したことは、現存する史料で見る限りは一度もありません。足利将軍も秀吉も、右大臣になればその責務として儀式に出席していたのとは対照的です。

信長にとって、公家社会は求められれば応じるし、儀礼的な贈り物もするし、公家と個人的な友人にはなるものの、自ら親しむ対象ではなかったのでしょう。

※織田信長の官職遍歴
?~天正2(1574)年弾正忠
天正2~3(1574~75)年参議
天正3~4(1575~76)年権大納言
天正3~6(1575~78)年右近衛大将(兼任)
天正4~5(1576~77)年内大臣
天正5~6(1577~78)年4月内大臣

束縛タイプ:徳川家康

公家を政治に関与させず、文化事業のみに制限

公家に無関心な信長に対し、徳川家康は晩年、公家との政治的決別をはかりました。原因となったのが家康と豊臣秀頼との関係です。

力量としては家康のほうが上でしたが、位では豊臣家のほうが上。豊臣家がこのまま公家として残っていては、徳川の天下を脅かす存在になりかねません。徳川の天下を盤石なものとするために、家康は軍事的に豊臣家を滅ぼします。

同時に今後も「武家であり、かつ関白である」という存在を出さないために、公家の任官には全て徳川家の許可がいるものと定め、さらには公家の政治的活動も禁じ、文化・芸術活動に集中するよう命令しました。
こうした家康の政策のおかげで、豊臣秀頼のような存在は江戸時代を通じて登場しませんでした。同時に戦国大名とわたりあう、たくましい公家政治家もまた、幕末まで姿を消すことになります。

※徳川家康の官職遍歴
永禄11~元亀2(1568~71)年左京大夫
元亀2~天正5(1571~77)年侍従
天正5~14(1577~86)年右近衛権少将
天正14~15(1586~87)年権中納言
天正15~慶長元(1587~96)年4月権大納言
天正15~16(1587~88)年1月頃左近衛大将・左馬寮御監(兼任)
慶長元~8(1596~1603)年内大臣
慶長8(1603)年2月~10月右大臣
慶長8~10(1603~1605)年征夷大将軍(兼任)

おわりに

公家との付き合いは天下人にとって避けられない政治課題でした。武家の頂点・征夷大将軍も、公家の頂点・関白もともに天皇から任じられる役職なので、名実ともに天下人となるためには、天皇や公家社会と関係を持つことが必要条件でした。

一方でどう付き合うかは各政権の色がでています。公家と武家の関係、いわゆる「公武関係」は近年注目をあつめている研究領域でもあります。本文中で詳細は割愛しましたが、各政権の対公家政策の研究も日々進んでおり、研究の展開に今後も目が離せません。


【主な参考文献】
  • 神田裕理『朝廷の戦国時代 武家と公家の駆け引き』(吉川弘文館、2019年)
  • 神田裕理『戦国・織豊期の朝廷と公家社会』(校倉書房、2011年)
  • 黒嶋敏『秀吉の武威、信長の武威 天下人はいかに服属を迫るのか』(平凡社、2018年)
  • 『岩波講座日本歴史 第10巻 近世』(岩波書店、2014年)
  • 石原比伊呂『室町時代の将軍家と天皇家』(勉誠出版、2015年)
  • 東京大学史料編纂所HP 大日本史料総合データベース

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  この記事を書いた人
桜ぴょん吉 さん
東京大学大学院出身、在野の日本中世史研究者。文化史、特に公家の有職故実や公武関係にくわしい。 公家日記や故実書、絵巻物を見てきたことをいかし、『戦国ヒストリー』では主に室町・戦国期の暮らしや文化に関する項目を担当。 好きな人物は近衛前久。日本美術刀剣保存協会会員。

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