「三浦義澄」十三人の合議制のメンバーのひとりで、三浦氏全盛期を築いた義村の父

源頼朝が挙兵して間もないころ、早い時期から呼応したのが相模国の三浦一族です。ここで紹介する三浦義澄(みうら よしずみ)は、父・義明とともに頼朝を助け、その功により鎌倉幕府では相模国守護職に、そして幕府の宿老として重んじられました。

三浦氏の全盛期こそ息子の義村の時代ですが、一族が躍進する基盤を作ったのは義明・義澄父子であったといえるでしょう。それでは、義澄の生涯を見ていきましょう。

三浦義明の次男として生まれる

三浦義澄は三浦義明の次男として大治2(1127)年に生まれました。幼名を荒次郎といいます。

三浦氏は桓武平氏の祖・高望王(たかもちおう)の子孫で、良文流あるいは良正流の流れを汲むとされ、相模国三浦郡(現在の神奈川県横須賀市あたり)を本拠とする豪族として活躍しました。義澄の父・義明は「三浦大介(おおすけ)」を称したため、それ以後の三浦氏嫡流は「三浦介」を称するようになりました。

畠山重忠との戦いで父を亡くす

治承4(1180)年8月に伊豆国で流人生活を送っていた頼朝が挙兵すると、義澄は父ともども頼朝に呼応しました。しかし伊豆からやや離れた相模国を拠点とする三浦一族はすぐには合流できず、頼朝は石橋山の戦いで大庭景親率いる平家軍に大敗を喫しました。

義明・義澄はもちろんすぐに合流して戦おうとしました。『吾妻鏡』によれば、三浦一族の義澄や弟の義連(佐原義連)らは石橋山の戦いの3日前の8月20日には三浦郡を出発して頼朝の元へ向かったといいます。しかし、戦いが始まった23日はひどい大雨で、頼朝に合流して戦うことはかなわなかったのです。

24日、三浦氏の居城・衣笠城に戻る途中、義澄と義明は鎌倉の由比ヶ浜で、大庭景親と呼応した武蔵国の武士・畠山重忠に出くわし、数時間の激戦となりました。『吾妻鏡』によれば、この時点で数人の部下が討死にしたとか。重忠の郎従も50数人が首を取られて殺されたといいます。

重忠が退却すると義澄・義明は三浦郡に帰りつきましたが、26日には由比ヶ浜での雪辱を晴らすべく、重忠が同じ武蔵国の河越重頼に加勢を依頼し、重頼、江戸重長らとともに衣笠城を襲撃しました(衣笠城合戦)。

重忠襲撃は三浦一族側にも伝わり、衣笠城に籠城して防戦しますが、先の由比ヶ浜での激戦から時を置かず攻められた三浦一族は敗戦の色合いが濃厚になりました。夜、義澄は城を捨て逃げる決断をしますが、義明はうなずきません。『吾妻鏡』には、次のように城に残ることを決意した義明の覚悟が記されています。

「欲相具義明。々々云。吾爲源家累代家人。幸逢于其貴種再興之秋也。盍喜之哉。所保已八旬有余也。計餘算不幾。今投老命於武衛。欲募子孫之勳功。汝等急退去兮。可奉尋彼存亡。吾獨殘留于城郭。摸多軍之勢。令見重頼云々」
(私は源家譜代の家人として幸いにも再興の時に立ち会うことができたのだから、どうしてこれを喜ばないことがあろうか。私はもう80歳を超えていて老い先は短い。今はこの老いた命を頼朝様に捧げ、子孫の勲功としたい。だからお前たちは早くここから出て頼朝様の存亡をたずねなさい。私はこの城に残り、軍勢が多くいるように偽装して重頼に見せてやるのだ)
『吾妻鏡』治承4(1180)年8月26日条より

このようにひとりで死ぬ決意を示した義明に、義澄らは泣きながらも、父の言葉に従って城を脱出し、安房国(現在の千葉県南房総市あたり)に向かいました。

義明は宣言どおり衣笠城で戦死し、89歳の生涯を閉じました。ちなみに、この時敵対した畠山重忠の母は義明の娘で、重忠は義明の孫にあたります。石橋山の戦い以降、まだ源氏と平氏のどちら側で戦うか決めあぐねていた関東の武士たちは、見知った者も多い中で戦わなければならなかったのです。重忠自身、この後しばらくして頼朝に従うことになります。

当初重忠が平家方として戦ったのは、重忠の父の重能(しげよし)が大番役(京都市中の警護役で、任期は3年ほど)で在京していたため、そうせざるを得なかったともいわれています。

畠山重忠は遅れて10月、房総を平定した頼朝に服属しました。先に頼朝の元へ駆けつけた義澄ら三浦一族にとって重忠は父を殺した相手ですが、義澄らは、「今の頼朝が平家を倒すには重忠ら秩父一族の力が必要だから、忠実、実直であるためには恨みを持ってはいけない」と言い含められていたようです。

頼朝の宿老として

安房国に入って頼朝と合流した義澄は、さっそく9月に頼朝の命を救うという手柄をあげています。
『吾妻鏡』治承4(1180)年9月3日条によれば、義澄は安房国の長狭常伴(ながさつねとも)が頼朝の居所を襲撃して討とうとしていることを事前に知ると、やられる前に常伴を襲撃して敗走させたといいます。

この後も義澄は頼朝と行動を共にして10月に鎌倉入りし、富士川の戦いの後、相模国府で頼朝から本領を安堵され、新恩の所領を与えられて宿老の一員となりました。

この後続く源氏の平家追討で、義澄は元暦元(1184)年8月に源範頼(頼朝の異母弟)に従って平家追討の軍に加わり、翌年、平家を滅亡に至らしめた壇ノ浦の戦いにおいては先鋒を命じられて活躍し、また文治5(1189)年の奥州征伐においても武功を立てました。

その翌年の建久元(1190)年11月に頼朝が上洛した際には隋兵となり、頼朝に今までの功に対する賞として右兵衛尉に推挙されますが、義澄は嫡男の義村に譲りました。

建久3(1192)年には、頼朝が征夷大将軍に任ぜられました。義澄は鶴岡八幡宮でその除書(任命書)を受け取るという大任を任されています。義澄がどれだけ頼朝に厚遇されていたかがうかがえます。

『吾妻鏡』はこの時の義澄の名誉を次のように記しています。

「義澄捧持除書。膝行而進之。千万人中。義澄應此役。面目絶妙也。亡父義明献命於將軍訖。其勳功雖剪鬚。難酬于没後。仍被抽賞子葉云々」
『吾妻鏡』建久3(1192)年7月26日条より

今か今かと待ちきれない様子の頼朝の目の前に除書を捧げて渡した義澄。多くの御家人の中でこの名誉ある大任を果たした義澄は面目がたったというもの。義澄の亡き父は頼朝のために命を捧げた。古代中国の太宗(李世民)の故事に、自分の髭を切ってそれを薬として焼き(※髭の灰が病に効くと言われたため)、勲功のあった家臣に下賜したというが、義明は死んでしまったので褒美を与えることもできない。だから子の義澄にこのような名誉を与えたのだ、としています。

十三人の合議制

建久10(1199)年正月13日に頼朝が病死すると、4月、義澄は2代将軍(鎌倉殿)となった頼朝の嫡男・頼家を支える「十三人の合議制」の宿老の一員となりました。つまり義澄は頼朝死後も鎌倉幕府の有力な御家人として立場を保ったのです。

義澄の最期

同年、頼朝の側近のひとりであった梶原景時が失脚する事件がありました。

景時が有力御家人のひとり・結城朝光について讒言したという話が御所の女房・阿波局(あわのつぼね/北条政子の妹)から朝光に伝わったことをきっかけに、御家人たち66名が景時を弾劾する連判状を受け、景時は追放され、討たれたのです(梶原景時の変/乱)。
義澄は嫡男の義村とともに弾劾に加担しました。

義澄が亡くなったのは、景時が討たれた3日後の正治2(1200)年1月23日のことでした。享年は74歳。長生きであった父・義明よりは早い死でした。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 『日本人名大辞典』(講談社)
  • 安田元久『武蔵の武士団 その成立と故地を探る』(吉川弘文館、2020年)
  • 元木泰雄『源頼朝 武家政治の創始者』(中央公論新社、2019年)
  • 校注・訳:市古貞次『新編日本古典文学全集(46) 平家物語(2)』(小学館、1994年)
  • 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)※本文中の引用はこれに拠る。
  • 神奈川県公式ホームページ「三浦一族に関する人物紹介」
  • 神奈川県公式ホームページ「三浦一族のエピソード」

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。