「大庭景親」源家譜代の家人ながら、平家方として頼朝の前に立ちふさがった坂東武者
- 2021/12/25
源頼朝の挙兵には、伊豆国、相模国、武蔵国などの多くの武士が加わり味方しましたが、中にはそうでない者もいました。伊豆国ではたとえば伊東祐親、相模国では大庭景親(おおば かげちか)、武蔵国では当初有力な秩父一族の動きははっきりしませんでした。
ここでは、頼朝が伊豆で挙兵して伊豆目代の山木兼隆を討って意気揚々と相模国土肥郷へ向かったところに立ちふさがり、挙兵早々に大敗させてしまった相模国の武士・大庭景親について紹介します。
ここでは、頼朝が伊豆で挙兵して伊豆目代の山木兼隆を討って意気揚々と相模国土肥郷へ向かったところに立ちふさがり、挙兵早々に大敗させてしまった相模国の武士・大庭景親について紹介します。
平家への重恩
大庭景親は相模国の在地武士です。大庭氏は桓武平氏の流れにあり、八幡太郎源義家に属した鎌倉景政(景正)に始まる鎌倉氏の流れを汲む一族。相模国大庭御厨(みくりや/現在の茅ヶ崎市、藤沢市あたり)を本領としていました。大庭氏の祖となったのは、景政の孫の景忠。景親はその子にあたります。源家譜代の家人であった大庭氏は、保元元(1156)年7月の保元の乱では頼朝の父・源義朝の軍に属しており、景親は兄の景義(景能)とともに戦いました。この戦いで景義は源為朝(義朝の弟)の矢を受けて負傷しています。
数年後の平治元(1159)年に起こった平治の乱では、源氏の棟梁・源義朝は敗死してしまいました。義朝の子・頼朝は何とか命だけは助けられましたが、源氏に属した者たちの多くは処刑されました。
義朝に従っていた景親も罪を得て処刑されそうになりましたが、平氏に助けられて生きながらえたといいます。ただ、平治の乱で景親が義朝に従って戦ったかどうかはよくわかっておらず、景親が何の罪で斬られようとしていたのかは定かではありません。
とにかく、命を救われたことに恩を感じた景親は、その後平氏の被官となったのでした。
石橋山の戦いでは頼朝を取り逃がす
治承4(1180)年5月に以仁王と源頼政が挙兵すると、平氏に属する景親は追討にあたっていましたが、頼朝が伊豆で挙兵することを知ると、8月の初めに相模国へ戻ります。この動きは、頼朝を警戒する平氏の命令に従ってのものと考えられています。当初、頼朝の元には、北条時政らの伊豆国の在地武士、土肥実平らの相模国の武士らが集まりました。頼朝は8月17日に伊豆目代の山木兼隆を討つと、相模国の三浦一族と合流するために伊豆から土肥実平の所領の相模国土肥郷まで進みました。
その流れを遮ったのが景親です。『吾妻鏡』によれば、景親は弟の俣野五郎景久と、同じく平家方の熊谷直実、渋谷重国、河村義秀らをあわせ、およそ3000余騎を率いて8月23日に相模国足柄下郡の石橋山(現在の神奈川県小田原市)で戦いました。
ちなみに、この時兄の景義は早い段階で頼朝に従っており、兄弟は袂を分かって戦うことになりました。
景親が率いる3000余騎に対して、頼朝軍はわずか300余騎程度であったというので、この時点で多勢に無勢の不利な状況でした。そこに、さらに追い打ちをかけるように背後から伊東祐親(すけちか)のおよそ300余騎の軍が現れます。
関東には源家譜代の家人であった武士が多くいるといっても、平治の乱で義朝が破れてからは関東も平家方に従う武士が増えました。挙兵したばかりの頼朝は、この時点では呼応する仲間を集める途中であり、頼みの三浦一族ともまだ合流できていませんでした。
頼朝は三浦一族の援軍を期待したでしょうが、このころはタイミングが悪く豪雨で、三浦一族が石橋山の戦場に到着する前に頼朝軍は大敗してしまいました。
圧勝した景親軍は翌24日に椙山に逃げ込んだ頼朝軍の追撃を行いました。しかし、平家方の軍の中には頼朝に味方する動きを見せる者もいました。梶原景時や飯田家義らです。
家義は頼朝の元にはせ参じようとしたものの、景親の軍勢が多くて思うように動けなかったとか。景時は頼朝の居場所を知りながら裏切り、あさっての方向を示して無意味な捜索をさせたため、景親はついにあと一歩のところで頼朝を取り逃がしてしまったのです。
頼朝は箱根経由で真鶴から海を渡って安房国(現在の千葉県南房総市あたり)まで逃れ、上総国(現在の千葉県中央部あたり)・下総国(同じく千葉県北部から茨城県西部あたり)の大領主である上総介広常と千葉介常胤を味方につけ、上総国・下総国両国の武士たちを従わせました。
一方、頼朝を取り逃がした景親は、9月2日に早馬をやって福原の平清盛のもとへ報告をしましたが、もたもたと追討の兵の準備をしている間に頼朝は勢力をのばしていたのです。頼朝挙兵間もない時期は確かに大した勢力ではありませんでしたが、それは関東の武士たちがどちらにつくのがいいか、なかなか態度を明確にしていなかったためでした。
武蔵国の武士たちは当初頼朝に近づく者たちと、景親とともに反頼朝の立場を示す者たちとに分かれていました。後に鎌倉幕府の御家人となって頼朝の信頼を得る畠山重忠も、石橋山の戦いの時点では景親と呼応して頼朝方の三浦一族と戦っています。
しかし、頼朝が安房国に入ってからしばらく、9月末ごろには、頼朝の軍はすでに27000余騎にも膨らんでいたといいます。景親はまだ弱い頼朝を叩く絶好のチャンスを、仲間の裏切りによって逃してしまったのです。
富士川の戦いで降伏
頼朝が鎌倉に入った10月。平家方の追討軍はまだもたもたしていました。『平家物語』によれば、追討軍が3万余騎を引き連れて都を出発したのは、9月18日であったとか。(公卿・中山忠親の日記『山槐記』は福原を出たのが22日、翌日に六波羅に着き、29日に再び出発したとする)追討軍の指揮をとっていたのは清盛の嫡孫である平維盛(これもり)です。富士川の戦いで維盛の軍が水鳥の羽音に驚いて撤退してしまったという情けないエピソードは有名です。さすがに羽音を聞いただけで逃げ惑ったというのは軍記物語の誇張表現で、平家軍は夜襲の気配を察知して撤退したという説もあります。
とにかく、待ち望んでいた平家の大軍が戦わずに撤退してしまい、このころ平家の軍に加わるため河村山に逃れていた景親は10月23日になすすべもなく降伏しました。その後は上総介広常に預けられ、同月26日に片瀬川で梟首されました。
ちなみに、景親とともに平家方として戦った弟の俣野景久は逃れて平家軍と合流しましたが、倶利伽羅峠の戦いで討死したとされています。一方、早くから頼朝に従った兄の景義はその後も有力な御家人のひとりとして頼朝に仕えました。
【主な参考文献】
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)
- 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
- 『世界大百科事典』(平凡社)
- 『日本人名大辞典』(講談社)
- 安田元久『武蔵の武士団 その成立と故地を探る』(吉川弘文館、2020年)
- 元木泰雄『源頼朝 武家政治の創始者』(中央公論新社、2019年)
- 校注・訳:梶原正昭・大津雄一・野中哲照『新編日本古典文学全集(53) 曾我物語』(小学館、2002年)
- 校注・訳:梶原正昭『新編日本古典文学全集(62) 義経記』(小学館、2000年)
- 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)
- 校注・訳:市古貞次『新編日本古典文学全集(45) 平家物語(1)』(小学館、1994年)
- 小田原市公式ホームページ「石橋山合戦」
- 小田原市公式ホームページ「石橋山古戦場」
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