「木曾義仲(源義仲)」平家を都落ちさせ、旭将軍となった源頼朝の従兄弟

木曾義仲(きそ よしなか)と源頼朝の境遇はよく似ています。頼朝が戦で父を亡くし、治承4(1180)年の挙兵まで伊豆国で暮らしたように、義仲もまた幼いころに戦で父を亡くし、信濃国木曽谷に逃れて暮らしました。以仁王の呼びかけに従って挙兵した時期もほとんど同じでした。

挙兵して平家と戦った義仲は勝ち続け、平家の支配体制を壊しましたが、勝者として新しい世をつくることはありませんでした。最終的に勝者となったのは、従兄弟の頼朝です。義仲はなぜ敗者となったのか。その生涯をくわしく見ていきましょう。

信濃国・木曽で育った駒王丸

木曾義仲は、久寿元(1154)年に源義賢の次男として誕生しました。

父の義賢は東宮帯刀先生(たてわきせんじょう/帯刀舎人。東宮の護衛にあたる武官)。かつて東国に基盤を築いた八幡太郎義家の末裔で、源為義の次男です。兄には源氏の棟梁である源義朝がいます。義賢は関東武蔵国の武士・秩父重隆の娘を妻に迎えていましたが、義仲は遊女(小枝御前)との間に生まれた子であるといわれています。

義仲が父をうしない孤児となったのは、2歳の時のことでした(『吾妻鏡』は3歳とする)。久寿2(1155)年、義賢は甥の源義平(鎌倉悪源太。義朝の長子にあたる庶子)に攻められ、武蔵国比企郡(現在の埼玉県)の大倉館で討たれてしまったのです。のちの保元の乱で、源氏はふたつに分かれて戦うことになりました。この義平の襲撃はその前哨戦ともいわれています。

義賢の父・為義は嫡男であった義朝と対立し、嫡男が次男の義賢にかえられたという説もあります。義平の襲撃は、源氏の棟梁の座をめぐる一族の内乱であったと思われます。

幼名を駒王丸といった義仲は、畠山重能(しげよし)によって逃がされました。重能はこの時義平に従って戦っており、義賢の遺児である駒王丸の殺害を命じられていたのですが、まだ幼い駒王丸を殺す気にはなれず、武蔵国の武士・斎藤実盛に預けます。そして実盛は、駒王丸の乳母の夫・中原兼遠に託すことにしました。

母が遊女で、母方に強い後ろ盾を持たない駒王丸にとって、庇護者が現れたのは幸運なことでした。中原兼遠が本拠とした木曽がある信濃国は、関東ほど義朝の力がおよんでいなかったため、義賢の遺児を庇護したことで命が脅かされる心配があまりなかったのも理由のひとつでしょう。

義仲は正しくは源義仲(みなもと の よしなか)ですが、木曾義仲の名で定着しているのは、この木曽の地で育ったためです。元服した義仲は、木曾次郎義仲、木曾冠者(冠者は元服した少年、若者のこと)と称されました。

兼遠によって養育された義仲は、兼遠の息子の樋口兼光、今井兼平と兄弟のように育ちました。また兼遠の娘を妻に迎え、嫡男の義高、次男の義基をもうけています。そして、義仲とともに戦った女武者で義仲の妾として知られる巴御前もまた、兼遠の娘であったといわれています。

義仲の挙兵

治承4(1180)年、後白河院の第三皇子・以仁王が平家打倒の令旨を出し、各地の武士に挙兵を呼びかけました。

異母兄・源仲家

この以仁王とともに戦った武将に源頼政がいます。義仲には異母兄の仲家がいますが、仲家は父の死後この頼政の養子に迎えられ、成人後は八条院の蔵人になっていました。養父の頼政は以仁王とともに戦いましたが、計画が事前に漏れてしまったことで敗れ、宇治の平等院で自害しています。仲家もこの時戦死しています。

9月、平家討伐の兵を挙げる

20数年もの間木曽の地でじっと過ごした義仲は、以仁王の令旨を受けて「ついにこの時がきた」という心持ちだったのではないでしょうか。

長年義仲を養育してきた兼遠も同じ気持ちだったでしょう。義朝の息がかかっていなかったとはいえ、義賢の遺児を匿うにはかなりの勇気が必要だったでしょうし、平治の乱で義朝が敗れ、平家全盛期になると今度は平家が睨みをきかせていたわけで、そんな中養育してきた義仲が信濃の武士を従えて挙兵するというのは、長年の宿願だったはずです。

義仲は、8月に関東で挙兵した従兄弟・頼朝にやや遅れること9月に挙兵しました。義仲に従ったものには、乳母子の樋口兼光、今井兼平をはじめとする木曽の武士や、北佐久郡の根井行親(ねのいゆきちか)、小県郡の海野幸広(うんのゆきひろ)、上西門院に仕えていた源義清(矢田判官代)らがいました。

樋口兼光、今井兼平、根井行親と、行親の子・楯親忠(たてちかただ)の4人は「木曾四天王」と呼ばれています。

義仲にとって最初の戦いとなったのが、市原合戦です。信濃国の平家方武士・笠原頼直が義仲の動きを察知し、早いうちに討伐してしまおうと考えたのです。源氏方の村山義直が頼直を迎え撃つべく、9月7日市原で戦いが始まりました。劣勢となった義直に援軍を求められた義仲はこれに応じ、戦いは源氏方の勝利で終わりました。

義仲と頼朝の関係

初めての戦いで勝利した義仲は、10月になると古くからの源氏の地盤である東を目指して上野国に向かいました。上野国への進出は成功しましたが、義仲はわずか二か月で信濃国へ戻っています。引き返した理由について、『吾妻鏡』治承4(1180)年12月14日条によれば、東国はすでに頼朝が勢力を広げているので帰ることにした、とされています。

源氏の棟梁としての地位を固めようとしている頼朝にとって、関東に進出しようとする義仲は邪魔な存在でした。この時の義仲は頼朝との対立を避けて引き下がりましたが、こののちも両者は緊張感を保ったまま、敵対へと向かいます。

寿永2(1183)年、義仲と頼朝の関係に亀裂が生じました。その原因といわれるのが以下の3つの出来事です。

  • 甲斐武田氏の武田信光は娘を義仲の嫡男・義高に嫁がせようとしたが、断られたため義仲を恨み、「義仲に謀反の疑いがある」と頼朝に讒言した。
  • 義仲、頼朝の叔父にあたる源行家は頼朝に仕えることを嫌い、義仲を頼った。
  • 同じく互いにとって叔父にあたる志田義広(源義広)が頼朝を襲撃しようとして失敗し、義仲がいる信濃国へ逃れた。

これらの理由によってか、両者は一触即発の状態になりますが、義仲の嫡男・義高を頼朝長女・大姫の許婚にすることで和議を結び、事なきを得ます。許婚といっても実際は人質でした。のちに義仲が頼朝方と戦って敗死すると、人質の義高は頼朝の命令により殺されてしまうのです。

人質を出して頼朝の下手に出た義仲。転んでもただでは起きません。「わが子を人質にして鎌倉へ送ったのは、家臣たちの身代わりなのだ」と武士たちの妻に言ったのです。この言葉で感激させ、配下の武将たちの結束を図ったのですが、人質を出したことが義仲と頼朝の上下の差を印象づけたことに変わりはなく、一部の武将たちの離反を招きました。

義仲と頼朝、両者の運命があれほど違ってしまった背景には、血縁に対する情のかけかたの差も関係しているのかもしれません。頼朝からは、この義仲といい、弟の義経、範頼など、一度は協力して戦った肉親も容赦なく殺してしまう冷徹さが見て取れます。

一方、義仲は頼朝との仲がこじれることになろうとも、自分を頼ってきた血縁を庇護するだけの情がありました。どうすれば自分にとって有利に事が動くかを優先せず行動してしまう性格が、義仲を敗者にしてしまったのかもしれません。

平家との戦い

同年、義仲は北陸で平家方と戦いました。特に有名なのが、5月に起こった俱利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い(礪波山の戦い)です。3月に義高を人質として鎌倉に送って頼朝と和議を結んだ義仲は、後方の鎌倉を気にすることなく北陸で平家と戦うことができました。

平家軍は平清盛の嫡孫・平維盛(平重盛の嫡男)で、歴史書の『百錬抄』によると兵は10万騎であったといいますが、これはさすがに誇張でしょう(『平家物語』は7万余騎、『玉葉』は4万余騎とする)。義仲は彼を頼ってきた叔父の行家・義広らを含む全勢力(『平家物語』によれば5万余騎、『玉葉』は5000余騎とする)を引き連れて西へ向かいました。

まず、義仲方の今井兼平が盤若野で平家方の先鋒を破ると、平家方は退却して加賀で二手に分かれました。総大将の維盛を対象とする大手は砺波山(となみやま/越中国と加賀国の境にある)に入りました。

『平家物語』によれば、このとき義仲は、四方が巌石でできたこの山は敵が搦手(裏)に回ることはないだろうから、維盛はしばらくここで休むだろうと考えました。すると、平家方はまさに義仲の予想どおりに行動し、砺波山の山中で馬を休めたのです。義仲は平家方が寝静まる夜半に総攻撃をかけることを決定します。

義仲に勝利をもたらした願書と三羽の山鳩の逸話

この日、義仲は本陣の近くに八幡社(八幡宮は源氏一門の氏神)があるのを見つけ、覚明(僧侶で義仲の右筆)に命じて戦勝祈願の願書を書かせ、埴生八幡宮(はにゅうはちまんぐう)に奉納しました。今は埴生護国八幡宮となっている同神社に残るこの願書は名文といわれているので、一部紹介しましょう。

帰命頂礼、八幡大菩薩は日域朝廷の本主、累世名君の曩祖たり。宝祚を守らんがため、蒼生を利せむがために、三身の金容をあらはし、三所の権扉をおしひらき給へり。爰に頃の年よりこのかた、平相国といふ者あり、四海を管領して万民を悩乱せしむ。是既に仏法の怨、王法の敵なり。義仲いやしくも弓馬の家に生れて、纔かに箕裘の塵をつぐ。彼暴悪を案ずるに、思慮を顧るにあたはず、運を天道にまかせて、身を国家に投ぐ。試に義兵をおこして、凶器を退けんとす。(後略)
『平家物語』巻第七「願書」より

八幡大菩薩を讃えたあと、「平相国つまり平清盛が万民を苦しめている世の中で、低い身分ながら武士の家に生まれた自分は父の偉業を継いでいる。清盛の悪行を思うと思慮ばかりしていられず、運を天にまかせてこの身を国家に捧げている。そして今、義兵を起こして凶悪な平家を退けようと試みている」という内容で、その後に「兵士が今一つ結束しないのを悩んでいたところに八幡宮を拝してとてもうれしい。神仏の威光により、どうか勝利を決め、敵を退散させてください。この私の思いが通じて加護を与えてくれるならば、瑞相を見せてください」という内容が続きます。

瑞相とは、おめでたい印、吉兆のこと。『平家物語』はこの後、願書を奉納した義仲のもとに雲の中から山鳩が三羽現れ、源氏の白旗の上を舞うように飛んだ、としています。

鳩といえば、昔三韓征伐をしたという神功皇后が新羅で戦い敗戦間近となっていた時、神功皇后の祈りにより三羽の霊鳩が現れ、神功皇后は勝利した、という伝説があります。義仲の前に山鳩が現れたのも吉兆でした。

俱利伽羅峠の戦いでの勝利

よい験で気分よく迎えた戦い。義仲の軍は油断して寝静まった平家方の軍に三方から襲い掛かり、平家方は逃げまどいました。

平家方の兵は一か所だけ敵がいない方に向かって逃れますが、そここそ俱利伽羅峠谷です。兵は次々と谷に落ち、人馬が折り重なって谷全体を平家の軍勢で埋め尽くしてしまったとか。平家方にとっては、水鳥の音に驚いて戦わずに逃げたという逸話が伝わる治承4(1180)年の富士川の戦いと同じような苦い戦いでした。

俱利伽羅峠の戦いに勝利した義仲は続けざまに篠原合戦にも勝利。その勢いで入京をめざします。

義仲上洛

同年7月、義仲は上洛しました。その前に義仲は山門工作を行い、比叡山延暦寺と連携しました。都の鬼門を守る延暦寺は数千もの僧兵を抱えています。

この延暦寺が義仲と平家方のどちらにつくかは、重要な問題でした。平家の大軍を破った義仲は比叡山と戦うことになっても勝利する自身はあったかもしれませんが、寺社と戦うというのは、東大寺を焼き討ちした平家に対する世の評価を見ても、これから上洛しようという義仲のイメージを悪くさせかねません。できることなら戦いは避けたかったものと思われます。この大事な交渉は、先に紹介した右筆の覚明の活躍により成功しました。

いよいよ義仲が入京するという7月25日、平家一門は幼い安徳天皇、その母・建礼門院徳子(清盛の長女)を連れ、三種の神器を奉じて西国をめざし、慌ただしく都落ちしました。この間、安徳天皇だけでなく後白河院もつれて西国へ向かおうとしていた平家から隠れるように、後白河院は比叡山に雲隠れしていました。後白河院は平家が都を出てよくやく都へ還御(27日)し、蓮華王院を院御所としました。

義仲は同日に入京し、その翌日28日に蓮華王院の後白河院と対面。30日には洛中警護の院宣を受けました。義仲は都から平家を追い出し、頼朝よりも先に上洛を果たしたわけですが、朝廷が勲功第一としたのはまだ関東に留まったままの頼朝でした。続いて義仲が第二、そして叔父の行家が第三です。

義仲は当然ながら納得できず、頼朝の恩賞はしばらく見送られることになりました。8月10日には論功行賞が行われ、義仲は従五位下左馬頭越後守に任ぜられ、さらに6日後には越後守から伊予守に変更されています。

後白河院と対立

上洛から間もなく征夷大将軍にまでのぼりつめた義仲でしたが、順風満帆とはいえませんでした。まず、木曽の田舎で生まれ育った粗野な義仲は都のみやびな人々に受け入れられませんでした。

都の武士といえば、今まで権力を握っていた平家はほとんど貴族化しており、貴族文化にも通じていました。源氏でも以仁王とともに挙兵して戦った源頼政などは優れた歌人でもあり、鳥羽院の寵妃・美福門院得子や院近臣と交流をもつ風流人でした。

そういう武士になれていた都の貴族たちは、素養のない義仲ら田舎の武士に不快感を抱いたようです。義仲は眉目秀麗な好青年だったそうですが、見た目のよさを覆い隠すほど粗暴だったのでしょうか。

そして、粗野なのは義仲が引き連れてきた家臣たちも同様で、都で乱暴狼藉を働いたといいます。本来なら都で長く暮らした叔父の行家が義仲を助けて教え導くべきなのですが、勲功第三となった行家は甥に劣等感を抱いたのか、このころ義仲と競争するような姿勢を見せます。思えば、頼朝のもとを去ったのも同じ理由だったのかもしれません。

一方、頼朝は少年期を都で過ごしたこともあり、のちの上洛に際してもこれほどの失敗をすることはありませんでした。今まで一度も都の地を踏んだことがなかった義仲は不運でした。上洛の最初の段階でつまずいてしまったのも、敗北の要因のひとつといえそうです。

また、義仲は皇位継承をめぐって後白河院と対立していました。平家と都落ちした安徳天皇に代わる天皇を立てることになり、後白河院は高倉天皇の4人の皇子の中から第四皇子・尊成親王(のちの後鳥羽天皇)を推します。この時、義仲は事もあろうに皇位継承問題に口を出したのです。

実は義仲は以仁王の子・北陸宮を守護していました。以仁王の遺児・北陸宮を皇位に、というのは義仲上洛の目的のひとつでもあったのでしょう。平家打倒のため挙兵した以仁王の孝心を理由に北陸宮を強く推したのです。尊成親王も北陸宮も後白河院の孫であり、血筋に問題はありません。後白河院は以仁王が皇位につかなかったため、その子を即位させるわけにはいかないという理由で義仲の説得を試み、最終的には占いで選ぶという体で尊成親王に決定しました。

後白河院にとっては北陸宮の正当性がどうというより、義仲が北陸宮を天皇に、と口をはさんできたことこそが問題だったのだと考えられます。田舎から出てきたばかりの武士が皇位継承に介入するなど許されない。この義仲の行動は、後白河院をはじめとする朝廷の面々の神経を逆なでしたことでしょう。

この出来事もあり、義仲と後白河院の関係は一気に冷え込み、後白河院は鎌倉の頼朝との関係を強めていきました。9月、平家追討に向かった義仲の不在の時を狙い、後白河院と頼朝は距離を詰め、寿永二年十月宣旨が下されました。この宣旨は、朝廷が頼朝の東国支配を公認するというもの。頼朝は義仲に遅れること数か月、ついに公権を与えられ、官軍となったのです。

法住寺合戦

閏10月、水島の戦いに敗れて消沈する義仲のもとに、都の情勢が伝えられました。十月宣旨が下されて頼朝が後白河院と近づき、叔父の行家も嫌な動きをしている。義仲は平家追討を中断し、都へ引き返しました。後白河院は帰ってきた義仲に再度平家追討のための出陣を命じますが、義仲は動きません。

後白河院側は側近の平知康が院御所の法住寺を武装化し、また頼朝の弟・義経も近づいてきています。11月17日、後白河院は「義仲に謀反の企てありという密告があるが、事実無根ならば院宣に従って平家追討に迎え。院宣に背いて頼朝方と戦うならば、義仲ひとりの資格で行え。もし都に留まるならば、謀反とみなす」と最後通牒を伝えました。

義仲は追い込まれ、19日に法住寺殿を襲撃しました。戦いは正午ごろに始まり、寄せ集めの後白河院方はあっという間に敗北。後白河院は義仲軍にとらえられ、五条内裏に幽閉されました。

その後義仲は摂政の近衛基通や内大臣の徳大寺実定らを罷免し、自身の寵愛する姫の兄を内大臣に。また数十人の院近臣を解官して所領を奪うなど、強引な行動に出ました。

義仲がいわゆる「旭将軍」となったのは、翌寿永3(1184)年正月のことです。従四位下にのぼった義仲は、10日に征夷大将軍に任ぜられました。

義仲の最期

暴走する義仲はどんどん孤立していきました。後白河院を奉じて北陸へ下ろうとするも失敗し、平家との和睦交渉を進めるも、これも失敗に終わります。

そうこうしているうちに、義経・範頼の軍が迫っていました。頼朝軍数万に対し、人望を失った義仲に従うものはわずか。正月20日の宇治川の戦いで頼朝軍に敗れた義仲は、わずか7騎で逢坂山を越えて近江国に入りましたが、粟津(現在の大津市)で討たれました。享年31歳でした。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 『日本人名大辞典』(講談社)
  • 元木泰雄『源頼朝 武家政治の創始者』(中央公論新社、2019年)
  • 下出積與『木曽義仲 (読みなおす日本史)』(吉川弘文館、2016年)
  • 永井晋『源頼政と木曽義仲 勝者になれなかった源氏』(中央公論新社、2015年)
  • 校注・訳:市古貞次『新編日本古典文学全集46 平家物語(2)』(小学館、1994年)※本文中の引用はこれに拠る。
  • 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)
  • 長野県木曽町公式サイト 「木曽義仲」
  • 一般社団法人嵐山町観光協会公式ホームページ「木曽義仲」
  • 津幡町観光ガイド 「俱利伽羅古戦場」

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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