「岡田以蔵」大河ドラマ『龍馬伝』では佐藤健が熱演!坂本龍馬の友にして、幕末四大人斬りの一人

コロコロさん
 2021/11/22

岡田以蔵のイラスト

「人斬り以蔵」と呼ばれ、天誅(要人暗殺)を行って幕末の京都を震撼させた志士がいます。 土佐藩士 岡田以蔵(おかだ いぞう)です。

以蔵は足軽の家に生まれ、剣術に非凡な才能を発揮。やがて江戸の士学館で錚々たる剣士たちの中で腕を磨きます。 武市半平太に腕を見込まれた以蔵は上洛。武市の指示のもとで、数多くの天誅に関わります。 身を持ち崩した以蔵は、坂本龍馬の依頼で勝海舟の護衛を担当。しかしその中で、同志であるはずの尊王攘夷派を斬り殺してしまいます。 やがて以蔵は捕縛。土佐へ強制送還されてしまいます。以蔵を待っていたのは、苛烈な拷問と壮絶な最期でした。

以蔵は何を目指し、何と闘い、どう生きたのでしょうか。岡田以蔵の生涯を見ていきましょう。

坂本龍馬や武市半平太とのつながり

土佐藩の足軽の子として生まれる

天保9(1838)年、岡田以蔵は土佐国香美郡岩村で土佐藩郷士・岡田義平の長男として生を受けました。母は里江です。

父・義平は郷士でありながら、足軽格の身分を取得。二十石ほどの微禄を受けていました。 当時は日本近海に外国戦が頻繁に出没していた時期です。嘉永元(1848)年には、義平も海岸防備のため、以蔵らと城下の七軒町に移住しています。攘夷と以蔵との関わりは、この時から始まっていました。

当時、武市半平太(瑞山)が自宅で剣術の手解きをしていた時期です。 武市は土佐藩郷士でありながら、白札格(上士)と認められたほどの家柄に生まれた武士でした。 以蔵は武市に師事し、剣術を教わっています。以降は武市を生涯の師と仰ぎ、行動を共にしていきます。

文武に優れた武市と対照的に、以蔵は無学の人物と描かれがちですが、実際は一定程度の学問を持っていたと考えられます。また、武市の親戚には坂本龍馬がいました。以蔵と坂本が幼馴染かは定かではありませんが、二人はこの頃から面識があったと推察されます。

卓越した剣術の才能

以蔵が類まれな才能を見せたのが剣術でした。以蔵は当時、土佐随一の剣豪と呼ばれた小野派一刀流の麻田直養(なおもと)に学びます。同流には、武市も籍を置いていました。剣術で頭角を表した以蔵や武市は、さらなる高みを目指していきます。

安政3(1856)年、以蔵は武市とともに江戸に出府。鏡心明智流の士学館に入門しました。 士学館は八丁堀にあった道場です。北辰一刀流の玄武館・神道無念流の練兵館と並び、江戸三大道場の一つに数えられていました。

当時は道場主の桃井春蔵をはじめ、錚々たる剣客が在籍しています。 江戸での剣術修行において、以蔵はメキメキと腕前を上げていきました。実際にわずか一年の間に中伝を認められるなど、努力した形跡が残ります。

安政4(1857)年、以蔵は帰国しました。

土佐勤王党へに加盟する

やがて日本に時代の行方を左右する大事件が勃発します。 安政7(1860)年3月、水戸浪士たちが幕府の開国政策に反発。登城途中の幕府大老・井伊直弼を殺害しました。世にいう桜田門外の変です。桜田門外の変に寄って幕府の権威は失墜。全国的に尊王攘夷運動が盛り上がっていくこととなりました。

当然、それは土佐も例外ではありません。郷士を中心に尊王攘夷思想は浸透していました。 同年8月、武市が土佐で土佐勤王党を結成。以蔵も同党に加わっています。

土佐勤王党は、土佐藩の郷士層を中心に支持を集めていました。勤王党の目指すところは尊王攘夷です。当時の土佐藩参政・吉田東洋は公武合体・開国の立場であり、対立関係にありました。

2つの対立軸でみた、幕末の各思想(論)の概念図
※参考:2つの対立軸でみた、幕末の各思想(論)の概念図

やがて土佐勤王党は、汚れ仕事に手を染めていきます。文久2(1862)年4月、勤王党員の那須信吾らが吉田東洋を暗殺。以後は勤王党が藩首脳部と結んで藩政を牛耳るようになります。

同年6月、以蔵は参勤交代の衛士に選ばれて上京。武市らとともに政治の中心である京都で活動することとなります。 武市は京都で他藩応接掛を拝命。土佐勤王党は藩を代表する立場に躍り出ていきました。

人斬り以蔵として京都を震撼させる

数々の天誅を行い、人斬りと呼ばれる

尊王攘夷派によって、京都の治安は少しずつ乱れていきます。 尊王攘夷派は、佐幕派の要人に対して「天誅」と称した暗殺行為を行うようになっていきました。

天誅の最前線に立って行動したのが以蔵です。以蔵は薩摩出身の浪士・田中新兵衛らと徒党を組んで行動。武市の指示を受けて、次々と天誅を実行していきました。

幕末は暗殺が横行した時代ですが、特にずば抜けていたのが人斬りと呼ばれる存在です。 中でも「幕末四大人斬り」と呼ばれる男たちは、数多くの暗殺を実行して京都を震撼させました。 四大人斬りの中には、以蔵や田中が肥後の河上彦斎、薩摩の中村半次郎とともに名前を連ねています。 以蔵は剣客から、幕末を代表する暗殺者となってしまったのです。

侍のイラスト

以蔵らは最初に土佐藩下目付・井上佐市郎を暗殺。酒を飲ませて絞殺するという残忍なやり方でした。 ついで越後出身の志士・本間精一郎、京都町奉行所与力である森孫六や大川原重蔵、渡辺金三や同・上田助之丞も殺害。首を市中に晒しています。

以蔵は当時から「天誅の名人」と称され、尊王攘夷派からも畏怖された存在となっていました。 武市の信任を得た以蔵は、大きな役目も果たしています。 同年10月、幕府に攘夷を命じる勅使一行に加わり、副勅使・姉小路公知の護衛を務めていました。

坂本龍馬の紹介で勝海舟の護衛を務める

やがて少しずつ、以蔵の人生の歯車が狂い始めます。 文久3(1863)年1月、思うところがあったのか、以蔵は脱藩して江戸に向かいます。 2月には長州藩士・高杉晋作の居候となり、3月にともに京都に向かっています。

暮らしに困ったのか、この間以蔵は高杉から6両(約60万円)の借金をしていました。勤王党員がこれを返済するなどし、やがて以蔵は同志とも疎遠となっています。以蔵が借金や人間関係において、段々と身を持ち崩し始めたことが伺えます。

その後、以蔵は坂本龍馬のもとに身を寄せます。 5月、勝海舟の護衛を務めますが、勝を襲撃した尊王攘夷派の浪士を斬殺。同志であるはずの尊王攘夷派に手をかけてしまいました。 もはや以蔵は、尊王攘夷派からも白い目で見られていました。

1860年渡米時の勝海舟の肖像写真(出所:wikipedia)
1860年頃の勝海舟の肖像写真(出所:wikipedia

勝は以蔵に「人斬りはいけない」と説いています。しかし以蔵は「私がいなかったら、先生の首は飛んでいました」と返しました。流石に勝もこの時は返す言葉がなかったようです。

勝は護衛を務めた以蔵に対し、感謝の印なのかフランスのルフォシュ拳銃を送っています。攘夷派である以蔵も、この拳銃を使って戦ったのでしょうか。いずれにせよ、かなり信頼を得ていたことは確実です。以蔵が単純な人斬りではなかったことが窺えます。

土佐藩に捕らえられて最期を迎える

土佐藩に捕縛され、国許に連れ戻される

しかし少しずつ以蔵を取り巻く環境は変わりつつありました。同年8月、京都で政変が勃発します。会津藩と薩摩藩が手を結び、長州藩をはじめとした尊王攘夷派を御所から追放しました。世にいう八月十八日の政変です。

政変を契機として、尊王攘夷派は全国的に勢いを失い始めます。 当然、長州などと協調関係にあった土佐勤王党も多大な影響を被ることになりました。 同時にこの頃、土佐の前藩主・山内容堂が謹慎を解除。土佐勤王党を嫌い、吉田東洋暗殺の実行犯を探り始めていました。

流浪同然となった以蔵は、その日を暮らすのも難しい状況でした。 あろうことか、困窮した以蔵は京都において商家への押し借りを働いてしまいます。 以蔵は幕吏に捕縛されると「土井鉄蔵」の偽名を名乗りました。岡田以蔵だと知れれば、まず命はありません。 結果、以蔵は入れ墨を入れられて京都から追放処分となります。 しかし直後、土佐藩の役人が以蔵を捕縛。国許の土佐へと護送することとなりました。

土佐藩内においては、既に佐幕派が政権を握っています。 藩首脳部は、吉田東洋や京都の天誅事件が土佐勤王党の犯行だと断定。武市らを捕らえて尋問を行っていました。 帰国した以蔵には、軽輩出身ということもあって、すぐに厳しい拷問が加えられていきます。

江戸時代に行われた拷問のひとつ「石抱」
江戸時代に行われた拷問のひとつ「石抱(いしだき)」(出所:wikipedia

処刑と辞世の句

このとき、勤王党の間で以蔵の毒殺計画が持ち上がります。 以蔵が自白することで、勤王党員の多くが捕縛されることは確実でした。 勤王党員は以蔵を毒殺か或いは服毒自殺をさせるために動きます。毒殺に関しては、実際に武市も以蔵の実家に伺いを立てていました。

以蔵の父・義平は毒殺を拒絶。やがて以蔵は、拷問に屈して自らが関わった天誅に関する自白を始めていきます。 以蔵の自白は、一説では毒殺に関する憤慨が元となっているとも伝わりますが、定かではありません。 自白によって、勤王党員の多くが捕縛。やがて武市半平太にも切腹の沙汰が下ることとなりました。

そして慶応元(1865)年閏5月、以蔵は打首獄門に処せられました。享年二十八。

辞世は「君が為 尽す心は水の泡 消えにのちそ すみ渡るべき」と残ります。 墓所は真宗寺山にあります。

維新後、土佐殉難志士として多くの勤王党員が顕彰されています。しかし以蔵に関しては、前述の経緯や人斬りとしての前歴からその対象には含まれていません。


【主な参考文献】

  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 ...

  • このエントリーをはてなブックマークに追加