「千葉常胤」誠実に生き、頼朝の信頼を得た御家人の筆頭

千葉氏中興の祖といわれる千葉常胤(ちば つねたね)は、挙兵初期の頼朝に従い、鎌倉幕府成立に貢献した有力御家人のひとりです。頼朝の信頼が厚かった常胤は、源平合戦、奥州征伐で軍功をあげ、日本全国各地に所領をもちました。その所領は常胤の死後6人の子に受け継がれ、千葉氏はさらに発展していきました。

相馬御厨をめぐって

千葉常胤は、元永元(1118)年に下総権介常重と、常陸国の豪族・平政幹(たいらのまさもと)の娘との間に生れました。

良文流桓武平氏、平忠常の子孫である常胤の一族がいつから千葉氏と称するようになったかは明確にはわかりませんが、八条院領千葉荘が成立したのは1120年ごろで、常胤の父・常重は同荘検非違所で「千葉大夫」と称しているため、常重の代からであろうと思われます。

大治5(1130)年、常重は、下司職(げししき/荘園で実務を担う下級官吏)を留保して下総国相馬郡布施郷(現在の茨城県取手市・北相馬郡から千葉県我孫子市・柏市・野田市あたりの広い地域)を伊勢内宮に寄進し、伊勢神宮領の相馬御厨(そうまのみくりや)が成立しました。

『神鳳鈔』によれば、その広さは1000町歩(およそ1000ヘクタール。東京ディズニーリゾートがランドとシーをあわせておよそ100ヘクタールなので、その10倍の面積)であったとか。

常胤は保延元(1135)年2月に父から相馬御厨を譲与されていますが、これをめぐって下総国の国守・藤原親通や源義朝(頼朝の父)、平常澄、源義宗らと対立しました。

親通はこの地を伊勢神宮領と認めず、相馬の公田が官物未進、つまり税を納めていないとして常重を捕えたため、常胤は白布726反余りを納めて父を釈放させました。親通は御厨を私領とし、次男の親盛に譲っています。

それも解決しないうちに、今度は常重の養父・常時(常晴)の子・常澄が支配権を主張して対立し、さらにこれに介入したのが義朝でした。

義朝は康治2(1143)年に相馬御厨を押領すると、久安元(1145)年に伊勢神宮に寄進しています。そこで常胤は上品八丈絹30疋、下品70疋、縫衣12領、砂金32両、藍摺布上品30反、中品50反、上馬2疋、鞍置駄30疋を国庫に納め、相馬郡司職を承認されました。久安2(1146)年には改めて御厨を伊勢神宮に寄進しています。

常胤は保元元(1156)年に起こった保元の乱に義朝に従って出陣していますが、この時までに相馬御厨をめぐる対立が片付いたというわけではないようです。常胤が義朝に従って保元の乱で戦ったのも、常澄との問題が解決していないため、義朝の調停を受けるためであったとか。

その後、平治元(1159)年の平治の乱で義朝が敗死すると、今度は常陸国の豪族・佐竹義宗が藤原親通の子・親盛から相馬御厨の領有権を譲り受けたと主張し、永暦2(1161)年正月に伊勢内宮・外宮の二宮に寄進し、対抗するように常胤も二宮に寄進。佐竹氏との対立は、年貢を納入しなかった常胤が負け、領有権を失ってしまいました。

頼朝の挙兵に加わる

治承4(1180)年8月、義朝の子・頼朝は配流先の伊豆で挙兵すると、石橋山合戦に大敗して安房国(現在の千葉県)に逃れました。再起を図る頼朝は9月、下総国の常胤、上総国の上総介広常に参陣を促します。

歴史書『吾妻鏡』治承4(1180)年9月9日条に、頼朝の使者・安達盛長を迎えた常胤は源氏の再興を思うと感動で涙が出て言葉が出ないと言い、手勢を率いて頼朝を迎えると答えた、という美談が伝わっています。

一方、広常はすぐに答えを出さず遅参したばかりか、二心を抱いていたという記述。常胤を称賛して広常を貶める『吾妻鏡』の書きぶりは、早くに頼朝によって粛清された広常に対し、常胤の一族が長く繁栄した結果、そのように編集されてしまった可能性が考えられます。

そうはいっても、常胤は頼朝を迎えるにあたって敵対する平家方の下総国目代を討ち、平忠盛の娘婿・千田親政を生け捕りにするなど、遅れた広常に比べて仕事が早いのは確かです。

この時常胤は、八幡太郎源義家の孫・源頼隆を連れて参陣しました。頼隆は平治の乱で父・義隆を亡くし、自身は下総国に流され、常胤の庇護を受けていたのです。頼朝は源氏の子を庇護した常胤に感謝したようです。

佐竹氏との戦い

同年の富士川の戦いの勝利の後、常胤、広常、三浦義澄らは少しでも早く上洛したい頼朝を引き留め、佐竹氏征伐を進言しました。常胤ら東国武士が優先するのは在地の安定と所領の拡大でした。

相馬御厨をめぐる佐竹氏との対立と、頼朝に従属したことは無関係ではないでしょう。おまけに、佐竹氏ら常陸国の武士の多くは平家方でした。頼朝にとっても佐竹氏征伐はやらなければならないことでした。

こうして頼朝とともに佐竹氏と戦った常胤は、失っていた相馬御厨の支配権を回復したのです。

頼朝に信頼された常胤

常胤は元暦元(1184)年に頼朝の異母弟・源範頼軍の一員として一ノ谷の戦いに加わり、その後も西国での平家追討で活躍したほか、文治5(1189)年の奥州藤原氏征伐においては東海道大将軍として出陣し、奥州を与えられています。そのほか、下総国守護職、庇護国、薩摩国、美濃国、陸奥国など各地に所領を与えられ、一族繁栄の礎を築きました。

建久3(1192)年、常胤は政所下文を最初に賜りましたが、常胤は政所が出した命令書には満足せず、頼朝の直判(取次人の署名がなく、頼朝自ら捺印した下文)がいいと主張したため、頼朝がそのとおりにしてやったというエピソードは、頼朝と有力御家人の信頼関係を示すものとして有名です。

また頼朝の信頼厚い常胤は、頼朝の正室・政子が頼家を生んだ際には七夜の祝い(生後7日目の祝いの儀/うぶやしない)を、実朝誕生時には四夜の儀を取り仕切りました。また、頼朝のころから年始や元服といったおめでたい行事に饗応の儀礼として行われる「椀飯(おうばん)」は、常胤が献じたのが初例でした。常胤は頼朝の死後も椀飯を務めましたが、建仁元(1201)年3月24日に84歳で没しました。

常胤の6人の男子は、嫡男の胤正が千葉氏の惣領となり、以下弟の師常(相馬)、胤盛(武石)、胤信(大須賀)、胤通(国分)、胤頼(東)は別に家を興して宗家の有力な家臣となり、兄弟は「千葉六党」として団結し、それぞれ発展していきました。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 『日本人名大辞典』(講談社)
  • 『日本歴史地名大系』(平凡社)
  • 安田元久『武蔵の武士団 その成立と故地を探る』(吉川弘文館、2020年)
  • 元木泰雄『源頼朝 武家政治の創始者』(中央公論新社、2019年)
  • 上杉和彦『戦争の日本史6 源平の争乱』(吉川弘文館、2007年)
  • 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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