「上総介広常(上総広常/平広常)」東国最大勢力を誇った武士団の首長として頼朝に従うも、謀反の疑いで誅殺された武将

東滋実
 2021/12/23
上総広常の錦絵(歌川芳虎 画)
上総広常の錦絵(歌川芳虎 画)

挙兵後の頼朝最大の危機といわれる石橋山合戦の後、2万余騎を率いて頼朝に服属したのが上総介広常(かずさのすけひろつね)です。広常は挙兵初期の功労者でありながら、それからわずか数年ののちに頼朝に誅殺されることになります。広常は謀反の疑いをかけられ殺害されましたが、翌月には冤罪とされ、殺害の理由ははっきりしていません。

上総介を世襲した上総氏

上総介広常(かずさのすけひろつね)は、桓武平氏、平忠常の子孫です。上総氏は代々「上総介/上総権介」職を世襲したため、よくこの名で呼ばれます。

国司は国の等級によって守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)の四等官とその下の史生(ししょう)がありました。介は長官である守を補佐する次官という立ち位置ですが、上総国は天長3(826)年より親王任国(同年に親王を守に任じる制度が始まったことから定着した呼び名。親王任国はほかに常陸国、上野国がある)となっていました。

親王が任国へ赴くことはないので、次官の上総介が実質的な国の長という扱いでした。戦国時代、織田信長が一時「上総守」を自称していて、誰かにつっこまれてただちに「上総介」に修正したとかいう話は有名です。

広常は上総権介として、上総国の全域(現在の千葉県中部)と下総国の一部(現在の千葉県北部)を所領とし、両総平氏の長として東国最大の武士団を形成していました。

源義朝に属した時代・平家に属した時代

保元の乱(保元元(1156)年)、平治の乱(平治元(1159)年)のころ、広常は源氏の棟梁である源義朝(頼朝の父)に従っていました。しかし、義朝は平治の乱で敗死し、その嫡男の頼朝は伊豆国に流されてしまいます。

義朝の死後は平家に従っていましたが、頼朝挙兵の前年の治承3(1179)年11月に平家の有力家人・藤原忠清が上総介に任ぜられると、上総一国をめぐってこれと対立し、清盛から勘当されてしまいます。突然このようなことが起こったのは、同年の清盛のクーデター(治承三年の政変)にともなって行われた受領の交替が理由です。

問題はほかにもありました。一族間で族長の座をめぐる争いがあり、広常の庶兄が平家と組んで広常の立場を脅かすという状況にあったのです。

2万余騎を率いて頼朝に従う

治承4(1180)年8月に挙兵し、伊豆目代・山木兼隆を討った頼朝は、直後の石橋山合戦で大敗しました。相模国から安房国へ渡って再起を図ろうという頼朝が次に支配下におさめようと考えたのは、武蔵国の武士団・秩父党です。しかし、安房国から武蔵国へ進むには、安房国の北にある上総国・下総国を通らねばなりません。もしこの両国が平家方として立ちふさがれば、武蔵国を手中におさめるのは困難になります。

9月4日、頼朝は上総国の広常、下総国の千葉常胤に使者を送り、参陣するよう呼びかけました。常胤が頼朝に従うという報告は9日にはもたらされました。歴史書『吾妻鏡』治承4(1180)年9月9日条によれば、常胤は中絶していた源氏の再興に感涙したとか。

これに対し、広常の対応は遅れました。まず広常は常胤に相談して決めると言い、遅れに遅れ、19日になってやっと頼朝のもとに参上したのです。

『吾妻鏡』(9月19日条)では、広常は実際に頼朝を見て大したことない人物なら討ち取って平家に差し出してやろう、数万も兵を連れて行けば喜ぶだろうと「二心」を抱き、表面上は従うそぶりで参上したものの、遅参を叱責する頼朝を前に、これは人の主となるべき威厳をもった人だと感じて心を入れ替えて服属した、とあります。

しかし、参上が遅れた理由を二心とするには、この時の広常の置かれた状況を考えると不自然です。広常は先述のとおり平家が決めた新しい上総介と敵対し、また庶兄が平家と通じて自身の立場を脅かしており、『吾妻鏡』のいうような「ちょっと頼朝を討って平家への手土産に」などと考える立場ではなかったのではないでしょうか。むしろこの状況は、広常に頼朝軍への参加を決意させる一因となったといっていいかもしれません。

参上が遅れたのも、内部に敵対する勢力があったため、その討伐に時間がかかっていたとする見方もあります。

『吾妻鏡』は広常が率いてきた兵を2万余騎としていますが、『延慶本平家物語』は1万余騎、『源平闘諍録』は1000余騎としており、『吾妻鏡』が誇張した可能性は考えられます。それでも、その後頼朝や周囲の御家人に対して偉そうな振る舞いをしたという話(『吾妻鏡』)を信じるならば、広常がもつ兵力のおかげで大きな態度を取れたと見ることもできます。そうであったならば、広常が頼朝挙兵初期の功労者であったといえそうです。

常陸国の佐竹征伐

11月の富士川の戦いの後、頼朝は敗走する平家軍を追おうとはしませんでした。それは広常、常胤、三浦義澄らが常陸国の佐竹氏の動きを懸念していたからでした。佐竹氏は常陸国の奥七郡を領する強力な勢力をもっていました。佐竹氏は広い東北に巨大な勢力をもつ奥州藤原氏と縁戚関係にあるうえ、平家方でした。頼朝にとって避けて通れない相手であったことはもちろん、常陸国と隣接する下総国の千葉氏にとって佐竹氏は長年勢力争いを続けている相手でした。東国武士たちは純粋に源氏再興だけを願って頼朝に従ったわけではなく、このような利害関係もあったのです。広常は、この佐竹征伐で大いに活躍しました。

誅殺された広常

活躍の一方で、頼朝に下馬の礼をとらないといった偉そうな態度が問題になったためか、寿永2(1183)年12月、広常は鎌倉御所内で双六をしていた最中、梶原景時によって嫡子の能常ともども暗殺されてしまいます。広常が謀反を企てているという理由で、頼朝が誅殺させたのです。

この件についての『吾妻鏡』の記述は欠落していますが、天台宗僧侶・慈円による歴史書『愚管抄』に広常殺害の手がかりが見えます。上洛した頼朝が後白河院と対面して報告した話によれば、広常は功績ある人物であったものの、朝廷を軽視するばかりで、「関東の自分たちは自由にやりたい、誰が命令できるものか」という態度であったため景時に殺害させた、ということです。

先の佐竹征伐の件でも広常は頼朝の大軍を上洛させたくないという態度で、関東は関東で朝廷からは独立してやっていくという考えをもち、上洛したい頼朝と対立した結果殺害されたという可能性はありそうです。

ところが、『吾妻鏡』はこの出来事の翌月の寿永3(1184)年正月17日条の中で、広常は冤罪であったとしています。頼朝は広常の追善供養を行い、広常と同様に謀反人として捕らえられていた広常の弟たちを許したとか。

関東最大の勢力を率いて頼朝に従った広常は挙兵時最大の功労者ともいわれますが、この粛清後にさしたる動揺もありませんでした。広常の立場は2万余騎という大きな数字がもつインパクトとは裏腹に、盤石ではなかったのかもしれません。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 『日本人名大辞典』(講談社)
  • 『日本歴史地名大系』(平凡社)
  • 安田元久『武蔵の武士団 その成立と故地を探る』(吉川弘文館、2020年)
  • 元木泰雄『源頼朝 武家政治の創始者』(中央公論新社、2019年)
  • 上杉和彦『戦争の日本史6 源平の争乱』(吉川弘文館、2007年)
  • 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター ...

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