「土肥実平」鎌倉幕府草創期を支えた相模の豪族
- 2021/12/25
源頼朝の挙兵当初から従っていた武士のうち大半を占めていたのは、伊豆国に本拠地をもつ武士たち、そして相模国に本拠地をもつ武士たちでした。土肥実平(どひ さねひら ※「どい」ともいう)は、父・宗平や弟たちとともに相模国南西部に中村党と呼ばれる有力な武士団を形成しており、挙兵時の頼朝軍の中核となっていました。
相模の有力豪族中村氏の生まれ
土肥実平は、桓武天皇の子孫・平高望(高望王)の流れを汲む桓武平氏の中村荘司宗平の次男として生まれました。本拠地は、相模国足下郡土肥郷(現在の神奈川県湯河原町および真鶴町)で、その地名から土肥次郎と称しました。父を継いで中村を名乗った長兄の重平のほか、実平の弟たちは実平と同様に本拠とした地名を名字とし、宗遠が土屋氏、友平が二宮氏、頼平が堺氏を称しています。
頼朝の挙兵に従う
実平がいつごろから頼朝とつながりを持っていたかははっきりしませんが、治承4(1180)年8月の頼朝挙兵当初から従軍していたことから、頼朝流人時代からある程度の関わりは持っていたものと思われます。歴史書『吾妻鏡』の治承4(1180)年8月6日条には、17日に定められた伊豆目代・山木兼隆館襲撃の計画について、頼朝のもとに集まった者たちの中でもとりわけ頼朝への忠誠心がある者たちを個別に呼んで伝えた、という記述があり、そのうちのひとりに実平がいます。
また、8月20日条には伊豆から相模へ向かう頼朝に従った者たちの名前が記されており、相模国の一員には、実平とその弟たちをはじめとした中村党(相模国南西部を本拠とする武士団)の武士たちの名が連なっています。
実平は、頼朝が挙兵以前から信頼する家臣のひとりであったことがうかがえます。
自害を決意した頼朝に作法を伝授
伊豆国から相模国へ進んで相模国の三浦一族との合流をめざしていた頼朝軍は、8月23日に同国の足柄下郡の石橋山(現在の神奈川県小田原市)で平家方の大庭景親・伊東祐親らと戦いました。この時、頼りだった三浦一族とはまだ合流できていませんでした。大雨で増水した川に阻まれ、三浦一族は本拠へ引き返していったのです。景親の軍は3000余騎、祐親の軍は300余騎。一方の頼朝軍はわずか300余騎程度で、その差は歴然としていました。
その結果は火を見るよりも明らかです。総崩れになった頼朝軍は蜘蛛の子を散らすように数騎ずつバラバラになって山中へ逃れました。その時頼朝に従ったのも数名で、その中には実平もいました。
天台宗僧侶・慈円による歴史書『愚管抄』によれば、この時自害を覚悟した頼朝に、実平が自害の作法を伝授したとか。一方、『吾妻鏡』の治承4(1180)年8月24日条には、頼朝ひとりならば自分が隠し通すから、今は命を大事にしてバラバラに分散する時だ、と実平が訴えたという記述があります。
それから頼朝は実平の本拠である土肥郷に逃れ、28日には真鶴岬から実平が土肥住人の貞恒という人物に命じて手配した船で安房国へ脱出しました。この石橋山合戦での大敗はおそらく挙兵以後の頼朝にとっては最大の危機でした。地の利がある実平らの助けがあってこそ、頼朝は再起できたのです。
この後も実平は頼朝に重用され、同年11月の常陸国佐竹氏の攻略や、元暦元(1184)年の木曾義仲討伐、平家追討などに参加しました。一ノ谷の戦いでは頼朝の異母弟・源義経のもとで活躍しています。この年、実平は西国の備前・備中・備後の三か国の守護に任ぜられており、頼朝の信頼が厚かったことがうかがえます。
義経の一件で失脚?はっきりしない実平の晩年
その後の実平については、『吾妻鏡』建久2(1191)年7月の幕府の厩の立柱上棟の奉行の記述を最後に、名前が見えなくなります。頼朝と義経の間に亀裂が入り義経が殺されると、平家との戦いでは義経軍に属していて義経と仲がよかったらしい実平はそれを理由に失脚した、という説があります。しかし、義経死後の建久元(1190)年12月の頼朝上洛時、右大将拝賀随兵7騎の一員(『吾妻鏡』によれば、随兵は北条義時、小山朝政、和田義盛、梶原景時、土肥実平、比企能員、畠山重忠)に実平の名があるのを見ると、義経との関係で失脚したわけでもなさそうです。とはいえ、フェードアウトした理由ははっきりしません。
没年は建久2~5年ごろとされますが、承久元(1219)年には実平の子・遠平の所領・安芸国沼田に棲真寺(せいしんじ/現在の広島県三原市大和町)を創建したと伝わっています。この寺は建保4(1216)年に亡くなった遠平の妻(頼朝の娘と伝わる)の菩提を弔うために建てられたのだとか。
実平の子孫
実平の子孫は、建保元(1213)年の和田合戦で敗北し、遠平の子・惟平は斬首されました。これにより土肥氏は衰退を余儀なくされたものの本領は没収されず、遠平の養子・景平が所領の安芸国沼田荘を相続しています。土肥氏の嫡流は没落していったものの、戦功により安芸国沼田地頭職に任ぜられた遠平が称した小早川氏は、その後も安芸国で繁栄しました。その子孫として特に有名なのは、戦国時代、毛利元就の三男として生まれて毛利を支えた小早川隆景や、その養子となった小早川秀秋です。もっとも、両名とも他家から養子として入ったため血はつながっていませんが。戦国時代まで続いた小早川氏も、秀秋に継嗣がなく、断絶。明治時代になって再興し、男爵となりました。
【主な参考文献】
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)
- 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
- 『世界大百科事典』(平凡社)
- 『日本人名大辞典』(講談社)
- 『日本歴史地名大系』(平凡社)
- 安田元久『武蔵の武士団 その成立と故地を探る』(吉川弘文館、2020年)
- 上杉和彦『戦争の日本史6 源平の争乱』(吉川弘文館、2007年)
- 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)
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