「源義経」 平家打倒の英雄は兄弟相克の末、謀反人として非業の死を遂げる!

コロコロさん
 2022/01/11
源義経の肖像画
源義経の肖像画

源平争乱の時代、彗星の如く現れて伝説的な足跡だけを残して消えた武将がいます。源氏の棟梁・源義朝の子・源義経(みなもと の よしつね)です。

義経は幼少時から肉親の情に恵まれずに育ち、奥州藤原氏の庇護の下で育ちました。兄・頼朝が関東で挙兵すると従い、平家の軍勢を撃破。ついには壇ノ浦で平家一門を滅ぼすことに成功します。しかし頼朝との関係悪化は、義経の行く道を遮っていきます。奥州に逃れたものの、庇護者・藤原秀衡が死去。やがて義経は時代の荒波に抗えなくなっていきます。

義経は何を目指し、何と戦い、どう生きたのでしょうか。源義経の生涯を見ていきましょう。

修行に明け暮れた牛若丸

源氏の棟梁・源義朝の子として誕生

平治元(1159)年、源義経は山城国京都で河内源氏の棟梁・源義朝の九男として生を受けました。生母は九条院の雑仕女出会った常盤御前です。幼名は「牛若丸(うしわかまる)」と名乗りました。

源氏といえば、平家と並んで武士を代表する家柄です。しかし牛若丸が生まれたこの年、河内源氏は退潮の時を迎えていました。父・義朝は平治の乱で平家の平清盛に敗北。東国に落ち延びる途中、尾張国で配下の裏切りによって命を落としてしまいます。

牛若丸としての活躍

平家が政権を握ったことで、源氏に連なる人間は追われる身となります。母・常盤御前は京都から逃亡。幼い牛若丸と、その兄である今若丸(のちの阿野全成)と乙若丸(のちの源義円)を連れて大和国に向かいます。しかし観念した常盤御前は京都へ戻って平家に出頭。清盛の愛人となることで許され、今若丸と乙若丸は出家することとなります。

このため一時は、牛若丸は平家によって育てられていました。当然、清盛が父・義朝を討ったとは知らされていなかったはずです。複雑な経緯と出生から、自ずと戦う道へと進むことが決まっていた、と言うこともできるでしょう。

武芸に優れた話は、牛若丸の伝説でも語られます。

─── ある夜、牛若丸は笛を吹きながら京都・五条大橋に差し掛かります。そこには999本の刀を奪った武蔵坊弁慶がいました。弁慶は千本目の刀を奪うため、牛若丸に襲い掛かります。しかし牛若丸は身をかわし、持っていた笛で弁慶を負かしてしまいました。これ以降、弁慶は牛若丸の郎党になったとされます。

あくまで伝説ですが、実際に弁慶が仕えたことは確かです。牛若丸には類まれなる魅力や、他を圧倒する迫力があったことは確かでしょう。

出家と奥州への旅立ち

常盤御前が公家の一条長成と再婚すると、牛若丸の運命も一変することとなります。

鞍馬寺へ預けられて仏門に入ることとなりました。このとき、稚児として遮那王(しゃなおう)と名乗ります。しかし遮那王は僧となることを嫌って鞍馬寺を出奔。一説によると、この前後に兵法の大家・鬼一法眼に弟子入りし、彼のもとで剣術や兵法について学んだとされます。

鞍馬寺(京都市左京区鞍馬本町)
鞍馬寺(京都市左京区鞍馬本町)

鬼一法眼は京八流の始祖とされ、伝説的な人物として知られていました。彼は一条堀川に住んだとされており、一条長成の屋敷がある一条大路沿いの近くにあります。鞍馬寺の前後、遮那王は鬼一法眼と出会ったとしても不思議ではありません。

そして、鞍馬寺を出奔した遮那王は自ら武士になる道を選びます。承安4(1174)年、自らの手で元服。父・義朝の「義」と清和源氏の祖・源経基の「経」をとって「義経」と名乗りました。

京都を去った義経が次に目指したのが、奥州の平泉でした。当時は奥州に鎮守府将軍・藤原秀衡が一大勢力圏を形成。平家も手出しができないほどでした。

秀衡の舅・藤原基成は、一条長成の従兄弟の子です。おそらくはその関係性から平泉に落ちたものと推察されます。

稀代の名将・源義経

京都で華々しい戦果を挙げる

元服した義経に、やがて武将として転換点が訪れます。

治承4(1180)年、平家討伐を掲げた以仁王の令旨が全国の源氏に通達。これを受けて兄・源頼朝が伊豆国で挙兵します。義経は平泉を出国して駿河国の黄瀬川に到着。頼朝と対面を果たし、遠征軍の将に任命されました。

すでに諸国では源氏が武力蜂起を開始。特に大きな勢力だったのが、鎌倉の頼朝と信濃国の源(木曽)義仲です。義仲の軍勢は、越中国の倶利伽羅峠で平家の軍勢を大破。寿永2(1183)年、頼朝に先んじて入京を果たしています。

しかし義仲は皇位継承問題に介入。自らが擁立した北陸宮(以仁王の第一王子)を天皇に据えるように主張しました。当然、後白河法皇は頼朝に傾き、東国の支配権を認める宣旨を発出。頼朝と義仲の対立となります。

義経は近江国に着陣。年が明けて寿永3(1184)年1月、兄・源範頼の軍勢と合流して京都への総攻撃を開始しました。宇治川の戦いで搦手を突破して京都へ侵攻。院御所まで進み、後白河法皇の身柄を保護しました。

さらに義経の郎党・伊勢義盛が義仲を討ち取ることに成功。義経は華々しい凱旋を果たします。

検非違使に任じられる

都落ちした平家は、西国で力を蓄えていました。義経は頼朝から平家追討を命じられて出陣。播磨国三草山で夜討ちによって平資盛を破り、軍事的要衝地の制圧に成功しています。

一ノ谷の戦いではわずか義経主従七十騎で鵯越の断崖から逆落としを決行。平家本陣を奇襲して源氏方の勝利に導きました。

戦後、義経は平家一門の首を都大路で獄門に掲げることを朝廷に奏上しますが、公卿たちは平家が皇室の外戚であることを理由に反対します。しかし義経は父・義朝の仇討ちだと強硬に主張して公暁たちを押し切り、平家一門の首を獄門にかけています。

次いで義経は京都で治安維持に従事することとなります。軍政や民政においても能力を発揮し、十分な戦功を挙げたものの、十分な褒章はあたえられませんでした。

同年の6月、小除目(臨時の除目)では範頼らが国司に任命。このとき義経には沙汰がありませんでした。しかし、8月には後白河法皇が義経を左衛門少尉及び検非違使に任命。歴とした官職を授かっています。

型に囚われない戦術で平家を滅ぼす

範頼の進軍が滞ると、義経の出番が回ってくることになりました。出陣した義経は、通常の用兵にとらわれない戦いを選びます。

元暦2(1185)年2月、義経は嵐の中でわずかな船団で出発。四国の阿波国に渡海しました。

平家の拠点・屋島は讃岐国にあり、三日ほどかかる距離です。しかし義経は強行軍のすえ、わずか数時間で踏破。民家を焼き払うと同時に奇襲攻撃を敢行しました。平家は源氏方が大軍だと錯覚して敗走。さらに西へと落ちていくこととなります。

3月には、長門国に出陣。壇ノ浦の戦いで平家と対峙します。義経は従来の戦い方にこだわらず、船の漕ぎ手を射る戦術を実行。源氏方の勝利に貢献し、平家を滅亡に追いやりました。

破竹の勢いで平家を蹴散らした義経ですが、決して周囲から高い評価を受けたわけではありません。梶原景時は義経の独断専行を頼朝への書状で訴え、関東武士の恨みを買っていると糾弾しました。

義経の兵法は、関東武士からすると異質なものでした。非戦闘員である船の漕ぎ手を射ることは禁じ手です。景時らが想像するおよその武士像とはかけ離れたものでした。一方で守覚法親王は、壇ノ浦後に義経から合戦の様子を聞き取り、『左記』の中で義経を「尋常でない勇士で、武芸や兵法に通じた人間だ」と激賞しています。

これらのことから、義経は型にとらわれない強さがあったことがわかります。だからこそ、受け入れられない側からは批判されるという一面も有していました。

頼朝との兄弟対立

頼朝に哀訴する腰越状を提出する

平家が滅びたことで、源氏方に新たな波乱が巻き起こり始めます。元暦2(1185)年、頼朝は許可を得ずに朝廷から官位を受けた関東武士の帰国を禁止。京都に留まるように命じます。

当然、この中には義経も含まれていました。しかし義経は命令を重視せず、平宗盛親子を護送して京都を出発。鎌倉を目指します。

対して頼朝は義経を鎌倉に入れずに腰越に留め置きました。義経は心情を綴る手紙(腰越状)を書いて提出。大江広元に託しています。

やがて鎌倉入りが許さなかった義経には、京都への帰還命令が下りました。義経は「関東において怨みを成す輩は、義経に属くべき」と発言。頼朝は激怒して義経の所領を没収して関東武士たちに与えています。

帰京した義経は、朝廷より伊予守に任官。後白河法皇から、頼りにされている様子がわかります。

一方で梶原景時からは、頼朝と対立関係にあった叔父・源行家追討を要請されますが拒絶。鎌倉方から距離を置き始めていました。

鎌倉方からの刺客を討ち取る

義経と頼朝ら鎌倉方の関係は悪化の一途を辿っていました。

文治元(1185)年、頼朝は家人・土佐坊昌俊を京都に派遣。土佐坊は兵を率いて義経の館を襲撃に及びます。義経は応戦し、加えて叔父・源行家の兵が義経方に加勢したことで勝利。戦後、土佐坊昌俊を捕えて斬首しています。

危険を指した義経は、頼朝を倒すことを決意しました。義経らは後白河法皇から頼朝追討の院宣を獲得。しかし味方する兵は多くありませんでした。しかし頼朝が有利と見るや、後白河法皇は翻意。今度は逆に義経追討の院宣を頼朝に出してしまいます。一転して不利となった義経は、九州へ落ちることを決めました。

都落ちですから、義経が平家や木曾義仲の如く狼藉を働くものと洛中では騒ぎとなっていました。しかし義経は四国と九州の荘園支配の院宣を得た後、後白河法皇に挨拶の使者を出して、穏やかに都を去りました。

『玉葉』の九条兼実は、頼朝に近しい人間ながら義経を賞賛。「義経の所業は義士」と言葉を残しています。

逃亡生活の末の最期

京都から逃亡する

義経は三百騎を率いて京都を脱出。摂津国に入ります。摂津国では頼朝方の多田行綱らの襲撃を撃退。大物浦から船を出して九州を目指そうと試みます。しかし暴風のために船団は難破し、主従は散り散りになってしまいました。

程なくして義経と行家を捕縛を命じる院宣が降下。加えて朝廷は頼朝に守護と地頭の設置を認めます。義経の行動が、頼朝にとって鎌倉政権を築く足がかりとなってしまったのです。

義経は郎党と共に京都の近辺に潜伏。鎌倉方と敵対する公家や寺社に身柄をかくまわせています。やがて愛妾・静御前が捕縛。翌文治2(1186)年には行家や、女婿・源有綱、郎党の佐藤忠信や伊勢義盛が鎌倉方によって殺害されています。

頼朝の圧力が京都に及ぶようになると、義経は山伏に身をやつして逃亡。伊勢や美濃を経て奥州平泉に身を寄せました。

奥州衣川館で討たれる

奥州藤原氏の庇護のもとにあった義経ですが、やがて情勢が一変します。文治3(1187)年10月、藤原氏の当主・秀衡が死去。義経は最大の後援者を失ってしまいました。

当然、鎌倉方はこの事態を見逃しません。頼朝は朝廷から泰衡に義経の捕縛命令を発出。義経と泰衡の関係に楔を打つべための行動でした。先代の秀衡は、泰衡に義経との共闘を遺言。しかし頼朝は再三にわたって泰衡に義経追討の圧力をかけていきます。

危機感を感じた義経は、積極的な軍事行動に出ます。文治4(1188)年2月には出羽国で鎌倉方と交戦。 翌文治5(1189)年1月には、比叡山の僧侶が捕縛。義経が帰京する意志を認めた手紙を所持していました。泰衡との関係が怪しくなる中、義経は京都へ脱出しようとしていたようです。

そして同年閏4月、運命の時が訪れます。泰衡は衣川館にいる義経に追討の兵五百騎を派遣。義経は主従わずか十数騎という少数でした。義経の郎党である弁慶らは頑強に抵抗しましたが、ことごとく壮絶な討死を遂げます。

もはやこれまでと観念した義経は、持仏堂に籠りましす。そこで正室・郷御前と四歳の娘を殺害。自らも自害して果てました。享年三十一。

義経の人生は、後世にわたって多くの人間を惹きつけました。判官贔屓(義経の官職が判官だった)という言葉を生んでいます。


【参考文献】
  • 元木泰雄 『源義経』 吉川弘文館 2007年
  • 菱沼一憲 『源義経の合戦と戦略 その伝説と虚像』 角川書店 2005年
  • 安田元久 『源義経』 新人物往来社 2004年

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 ...

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