「畠山重忠」清廉潔白な武蔵武士の鑑。はじめ頼朝と敵対するも、鎌倉幕府草創期の頼朝重臣として活躍

東滋実
 2022/01/19
畠山重忠の浮世絵(月岡芳年 画『芳年武者无類』)
畠山重忠の浮世絵(月岡芳年 画『芳年武者无類』)

鎌倉幕府御家人の中で悪人といえば梶原景時を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。その反対に、いいイメージばかりの人物もいます。それがここで紹介する畠山重忠(はたけやま しげただ)です。

剛勇廉直、清廉潔白な鎌倉武士の典型、そして力持ちで、音楽の才能まである重忠は称賛されましたが、いささかいいことばかり取り上げられがちな人物でもあります。

称賛されるだけの人であったことには違いありませんが、なぜ誇張されたのか。それには、重忠の最期が関係しているようです。くわしく見ていきましょう。

平家の重恩に報いるため、頼朝と敵対

畠山重忠は、武蔵国男衾郡畠山荘(現在の埼玉県大里郡川本町畠山)を本拠とする畠山重能(しげよし)の嫡子として、長寛2(1164)年に生まれました。父の重能は桓武平氏良文流の秩父氏の嫡流で、畠山を名乗るようになったのは重能からでした。重能は畠山庄司を称し、その子である重忠は庄司次郎と称しました。

秩父氏は重綱が武蔵国留守所総検校職(るすどころそうけんぎょうしき)に任ぜられて以降これを世襲しました。重能は嫡流ですが、河越重頼が家督を継いで総検校職となり、重能は庶流になっていたという説もあります。

しかし、『吾妻鏡』によれば頼朝が武蔵国に進出するにあたって江戸重長に帰伏を呼びかけた際、「畠山重能と小山田有重の兄弟は京都にいたので、今は江戸重長が武蔵国の棟梁」であったから呼びかけた、という記事があります。これによるならば、実際は重能こそ武蔵国の棟梁であったことがわかります。

治承4(1180)年8月に頼朝が挙兵した時、重忠は頼朝に敵対することを選びました。父の時代はおそらく保元・平治の乱いずれも源氏一門に従い、頼朝の父・義朝軍に加わっていたものと思われますが、平治の乱で義朝が敗れた後、重能は平家に仕えるようになりました。平治の乱の翌年から武蔵国が平家の知行国になっていた(平知盛が武蔵守)こともあり、重能ら武蔵国の武士たちは平家と密接なつながりをもっていました。

このように平家の全盛期に生れ育った重忠は、父が大番役で在京していたため、わずか17歳にして一族の命運をかけてどちらにつくか選択を迫られ、平家方として頼朝軍追討に出陣することを選んだのです。そして頼朝軍と合流しようとする相模国の三浦一族と由比ヶ浜で戦い、相模国衣笠城を陥落させ、自身の母方の祖父である三浦義朝を自害に追い込みました。

この重忠の決断について、『源平盛衰記』は「三浦氏に特別遺恨があるわけではないが、父の重能、叔父の有重が平家に奉公して京都にいる中、頼朝に与する三浦一族に矢ひとつ射かけないで通しては、平家への聞えもいかがかと思う」として、一応平家に従う形をとったとしています。

一方、『吾妻鏡』は「平家の重恩に報いるため」に三浦一族を攻めた、としています。どちらが重忠の本心であったのかはわかりませんが、少なくとも父・重能は真に平家の重恩に報いようとしたらしいことがうかがえます。

『平家物語(延慶本)』によれば、重能は平家と「西海までも供をしたい」と願ったけれども、平宗盛に諭されて涙をおさえながら都に留まったとか。その後重能は頼朝のもとに下りますが、『吾妻鏡』にそれからの重能の活躍は見えず、御家人として仕えることはなかったようです。あるいは、平家に近かった重能を頼朝が重用しなかったのかもしれません。

大力の重忠

最初は頼朝と敵対することを選んだ重忠でしたが、10月に頼朝が房総を平定して武蔵国に入り江戸重長に帰伏を呼びかけると、4日、河越重頼、江戸重長らとともに頼朝に帰伏しました。6日には、重忠が3万あまりの大軍の先陣を任されて相模国へ入国しています。

木曾義仲の追討では源義経の手に属し、また宇治川の合戦でも同様に義経の下で活躍しました。重忠が参加した戦についての記述を見ると、重忠が大力であったというエピソードがいくつもあります。

宇治川の合戦では、500余騎で川を渡る重忠が馬を射られて徒歩(かち)になった時、馬を流された大串重親が重忠につかまってきたので、大力の重忠が向こう岸まで放り投げてやりました。すると重親は重忠のおかげであるにもかかわらず「宇治川の徒歩立の先陣だ」といって一番乗りの名乗りをあげ、敵味方をどっと笑わせたというエピソードがあります。

重忠の大力で特に有名なのが、一ノ谷の戦いの有名な一場面「鵯越の逆落とし」で馬をかついで下りていったというエピソードです。

多くの兵が義経に従って崖を駆け下りていきましたが、「三日月」という太くたくましい馬に乗っていた重忠は馬から下り、崖の下をのぞいて「これは悪所だ。馬を転ばせてはいけない、馬を労わってやろう」といって、馬を十文字にひっからげてかつぎ、椎の木を杖にして崖を下りていったというのです。

力強さはもちろん、馬を大切にする重忠の心優しさがわかるいいエピソードではあるのですが、これはどうやら創作のようです。

一ノ谷の戦いでは、大手が5万6000余騎、搦手が2万余騎。『吾妻鏡』は重忠が大手に属していたとしていますが、『平家物語』は搦手、『源平盛衰記』ははじめ源範頼の大手に属していたものの、のちに梶原景時と交代して義経の搦手に加わったとしています。搦手にいたのはまず違いないとしても、よくよく見てみると、重忠は義経の鵯越の逆落としには加わっていなかったようなのです。

義経は搦手軍をふたつに分け、本隊を安田義定に任せ、自身は別動隊の70余騎を率いて鵯越に向かいました。この時、重忠の郎等が義定の下で手柄を上げており、つまり重忠は義定の本体に属していたことがわかっています。つまり、鵯越にいたはずがないため、馬をかついで下りたエピソードは創作なのです。

とはいえ、重忠の大力エピソードは、たとえば大力の力士・長居をあっという間に倒して気絶させた(『古今著聞集』)とか、その他合戦の記述の中にも複数登場するので、大力であったことは確かなようです。

重忠の音楽の才

『吾妻鏡』の元暦元(1184)年6月1日条に、頼朝が平頼盛を招いて宴を開いた時、頼朝は「馴京都之輩(京都になじむの輩)」を相伴しており、そのメンバーに重忠の名があります。

詳しくはわかりませんが、父・重能が大番役で在京したのとは別に、幼いころに京都で過ごしたことがあったのでしょう。

同年、重忠は頼朝が鶴岡八幡宮に参詣して別当円暁の酒宴に招かれた際、今様(いまよう)を披露しています。当時、後白河院が今様を好んでいた(後白河院は今様をまとめた『梁塵秘抄』を編纂している)こともあって、今様は大流行していました。これを歌ってその場の人々を楽しませた重忠は、都の文化に触れて教養を身に着けていたことが想像できます。

文治2(1186)年3月、頼朝が義経の居場所を尋ねるために静御前(義経の愛妾の白拍子)を鎌倉に呼び寄せました。この時、政子が天下の名手としてたたえられる静御前の舞を見たいとねだったため、静御前はしぶしぶ鶴岡八幡宮で舞を披露することになりました。そこで伴奏の鼓をうったのは京都暮らしが長かった工藤祐経で、銅拍子をうったのは重忠でした。

重忠に、天下一と評されるほどの静御前の舞の伴奏を務めるだけの音楽の才能があったということで、頼朝にもその才能が評価されていたことがうかがえます。

いい人エピソードに事欠かない重忠

文治3(1187)年、重忠が所領4か所を没収され、囚人になるという出来事がありました。

重忠は戦功の恩賞として多くの所領を与えられており、伊勢国沼田御厨の地頭職を持っていました。その地の代官に内別当真正という人物を置いていたのですが、この真正が乱妨をはたらくという事件が起こりました。その訴えがあり、重忠は所領を没収の上、囚人として従兄弟の千葉胤正に召預けられることになったのでした。

謹慎中の重忠は食事もとらず、寝ることもなく、一言も発しなかったため、胤正は頼朝に報告して「赦してやってほしい」と頼みました。絶食して死ぬ勢いで謹慎する重忠の様子を知った頼朝は感動し、すぐに重忠を赦します。重忠は一度出仕しますが、代官の不義のため恥辱を受けたと言ってすぐに本領の武蔵国の菅谷の館へ帰っていきました。

この後、梶原景時が「重忠が謀反を企んでいる」と讒言する事件があり、頼朝は小山朝政、下河辺行平、結城朝光、三浦義澄、和田義盛らを集めて相談しました。結城朝光は「重忠は正直で竹を割ったような性格だから、謀反など企むはずがないから、間違いに違いない」と言ったとか。使いとして重忠を訪ねた下河辺行平がこの出来事について詳しく聞かせると、重忠は憤慨して潔白を証明するために自害しようとしたほどであったといいます。頼朝はこの事件を通じて重忠の忠誠心と、何事もはっきりと言う心根に感じ入り、より一層信頼するようになったとか。

また奥州征伐で捕虜となった由利八郎に尋問した際の出来事も、重忠の誠実な人柄をよく示すエピソードです。

由利八郎を生け捕ったのは誰かはっきりさせるため、最初梶原景時が尋問することになりました。景時は由利八郎を侮って無礼な態度で尋問したため、八郎は「お前なんぞに答えてやるものか」と怒りました。頼朝はそれを察して、次に重忠に尋問させました。重忠は礼儀正しい態度で、「武勇で誉れ高いあなたを生け捕ったものは勲功をたてることになるので、生け捕ったと言い張る者たちが功を争っている。それゆえ、あなたを生け捕った者の馬や鎧の色を教えてほしい」と尋ねました。礼儀正しい重忠には、八郎も礼儀正しく向き合って、誰が生け捕りにしたのかを答えました。不遜な梶原景時と、礼儀正しい重忠が対比されたエピソードです。

このように誠実な重忠は頼朝にとても信頼され、頼朝の二度の上洛で先陣を務め、院参にも随従しています。重忠が北条時政の娘を妻に迎えたのも頼朝の計らいでしょう。

畠山氏の滅亡

頼朝が建久10(1199)年正月13日に亡くなり、嫡男の頼家が跡を継ぐと、幕府内で次々と内紛が起こりました。

まず、嫌われ者の梶原景時が結城朝光を頼家に讒言したという一件で有力御家人60余人が弾劾状を突き付けて景時は追放され、幕府の追討により一族が滅亡したこと。次に、頼家の嫡男の外祖父となり権力を持った比企一族が、頼家嫡男の一幡もろとも滅ぼされたこと。そして将軍の頼家までも、幽閉の後に殺されてしまいました。

その次にターゲットとなったのが重忠の一族でした。

発端は、元久元(1204)年11月4日、3代将軍・実朝の妻(京都の坊門信清の娘)を迎えるにあたって派遣された15人の中にいた重忠の子・重保が、京都の平賀朝雅の屋敷の酒宴で朝雅と口論になったことでした。

口論の内容は不明ですが、それを不満に思ったらしい朝雅は翌年6月に北条時政室・牧の方(朝雅の妻は牧の方の娘)に訴え、牧の方はそれを受けて重忠と重保父子を謀殺しようと計画しました。実は口論とは別に、牧の方の子・北条政範が上洛中に急逝するという出来事もありました。牧の方は、自分の血を分けた子を失った今、時政の先妻の子たちが時政の後継となることに不安を抱いたものと思われます。そのため、自身の娘婿である朝雅に目を付けたのでしょう。

時政は、稲毛重成を使って6月20日に重保を鎌倉に招きました。翌21日、時政は義時、時房に重忠・重保父子討伐の必要について、子の義時、時房に相談しています。『吾妻鏡』によれば、ふたりは重忠には頼朝のころから数々の勲功があり、また比企氏の乱では時政の娘婿として北条に味方してくれたことなどを説いて、彼らが謀反を起こすはずがないと言って思いとどまらせようと努力しましたが、時政の考えは変わらず、重忠・重保父子の討伐は決行されました。

翌22日、武士たちは謀反人を討つため由比ヶ浜に向かい、何も知らない重保も謀反人を討つべく由比ヶ浜に向かいました。重保は取り囲まれて初めて、謀反人というのが自分のことなのだと悟ったことでしょう。父子は、鎌倉で何か事件が起こりそうなので、それに備えるために軍を動かしていただけなのです。ここで重保は殺されてしまいました。

また重忠が鎌倉に向かっているといううわさがあり、途中で重忠討伐が決定したようです。重忠ももちろん、自分に謀反の疑いがけられていることなど知りません。同日の昼頃、鎌倉に向かう途上の武蔵国二俣川にて、重忠は討伐軍と出会いました。この時、重忠軍はわずか130余騎程度。多勢に無勢です。

重忠はここで初めて重保が殺されたことを知ったでしょう。義時を大将軍とする討伐軍を見た家臣たちは菅谷館に戻って戦おうと主張しましたが、重忠は自分の運命を覚悟し、潔白を証明するように旅装のまま兵を戦わせ、愛甲季隆の矢に射られて討死しました(『愚管抄』には自害したとある)。重忠が亡くなると、重秀らの子や郎等らも自害し、畠山氏は滅亡しました。

重忠・重保父子が討たれたのは、ただ牧の方の思惑のためではありません。時政のほうでも、畠山氏を排除したい思惑があったのです。このころ平賀朝雅が武蔵守となっていましたが、在京して留守の間は舅の時政が国務を担っていました。武蔵国の支配を強化しようという時政にとって、総検校職を世襲し、現在も依然として武蔵国内で影響力を持っていた畠山氏は邪魔な存在でした。そのために重忠は排除されたのです。

『吾妻鏡』でやたら重忠をよく見せるような書かれ方がされているのも、これと無関係ではないようです。重忠の死後、武蔵国を支配しようという幕府にとって、すべては重忠が悪かったとするわけにはいかなかったのでしょう。武蔵国を掌握するためには、影響力が強かった重忠をもち上げ、すべては時政と牧の方のせいであったとする必要があったのです。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 『日本人名大辞典』(講談社)
  • 安田元久『武蔵の武士団 その成立と故地を探る』(吉川弘文館、2020年)
  • 岡田清一『北条義時 これ運命の縮まるべき端か』(ミネルヴァ書房、2019年)
  • 永井晋『鎌倉幕府の転換点 『吾妻鏡』を読みなおす』(吉川弘文館、2019年)
  • 貫達人『人物叢書新装版 畠山重忠』(吉川弘文館、1987年※新装版)
  • 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘がありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター ...

  • このエントリーをはてなブックマークに追加