「源行家」以仁王の令旨を奉じて諸国に平家打倒を呼びかけた源頼朝の叔父

源行家(みなもと の ゆきいえ)は、交渉力はあっても戦下手で、甥の源頼朝とは別行動をとって負け続け、手を組む相手を変えて転々とし、最後は義経と組んで頼朝に殺されることになりました。軍事面の能力はあまりなかったようですが、時勢を読んで巧みに生きようというエネルギーあふれる人物でした。

以仁王の令旨を奉じて決起を促す

源行家は、源為義(頼朝の祖父)の十男として誕生しました。生まれた年や母についてはわかっていません。はじめ「義盛」という名でした。

保元元(1156)年の保元の乱で父の為義が敗れると、熊野新宮に隠れ住んだことから「新宮十郎」と称しました。姉・熊野鳥居禅尼が熊野新宮別当家の行範の妻であったため、その縁を頼ってこの地で過ごしていたようです。


治承4(1180)年、後白河院の第3皇子・以仁王(もちひとおう)は源頼政の勧めで平家討伐の令旨(りょうじ/本来は皇太子・三后・親王・法親王・女院が命令を伝えるために出す文書で、親王宣下も受けていない王が出すものではない)を発しました。

前年に平清盛がクーデターを起こし、後白河院を幽閉、清盛の娘・平徳子を母にもつ安徳を天皇にしたことを受けて決意したのです。この令旨を全国各地の源氏の武士に伝える役目を負ったのが、行家でした。

行家はその4月に八条院蔵人に補せられると、この時に「行家」に改名しています。以仁王は八条院の猶子になっていたので、そのつながりから八条院蔵人になったのでしょう。八条院は鳥羽院に寵愛され、女帝として擁立する動きがあったほどの女院(にょういん)で、父母から230か所もの所領を継承していました。八条院領の多くは東国にあったため、八条院蔵人という立場は行家が以仁王の令旨を関東で配り歩くために下向するいい口実になりました。

『吾妻鏡』によれば、行家が令旨をもって出発したのが4月9日、頼朝がいる伊豆国の北条館に届けられたのが28日のこと。『平家物語』では28日に返送した行家が出発し、5月10日に北条に到着した、とあります。

行家から以仁王の挙兵がバレた?

以仁王の挙兵は、準備が整う前に平家方に知られ、以仁王と頼政は宇治川の戦いで討死してしまいます。なぜ平家方にバレてしまったのかというと、『平家物語』によれば行家が令旨を携えあちこちに触れ回って勢力を集めている動きが熊野別当の湛増(たんぞう)に知られており、この平家に近しい湛増から伝わってしまったのだといいます。

独自に行動する行家は失敗続き

以仁王と頼政はすぐにつぶされてしまったものの、同年8月には行家が令旨を届けた甥の頼朝が挙兵しました。行家はというと、東国で一大勢力を築く頼朝と合流せず、独自の行動をとっていました。行家は十男とはいえ為義の子ですから、自分こそが源氏の棟梁になるのだ、という思いがあったのでしょうか。

しかし、行家に軍事的な才能はなかったようです。養和元(1181)年3月10日、平重衡(しげひら)と維盛の軍と墨俣川(現在の岐阜県大垣市)で戦った(墨俣川の戦い)ものの敗北し、行家はこの戦で700人近くの兵を失いました。兵力差が大きかった(『延慶本平家物語』は平家軍3万騎、源氏軍6000騎、関白九条兼実の日記『玉葉』は源氏軍5000余騎とする)こと、源氏軍の指揮系統に乱れがあったことなどが敗北の要因であったようです。行家は矢作川(長野、岐阜、愛知県にまたがる河川)まで後退して防戦しますが、これも失敗に終わりました。

寿永元(1182)年5月、行家は伊勢神宮に平家追討のため祈願を乞うも断られ、延暦寺と提携しようとするも、これも失敗に終わりました。

『延慶本平家物語』によると、戦に敗れた行家はしばらく相模国に住み、兵糧確保のために所領をくれと求めたものの、頼朝に断られたため頼朝から離れ、今度はもうひとりの甥・木曾義仲を頼ることにしたということです。このあと頼朝と義仲との間に不和が生じますが、その原因のひとつが行家のこの行動であったといわれています。「所領がほしいなら自分で取ってこい」と甥の頼朝に言われ、年長者として腹が立ったのでしょうが、頼朝のほうも何も成し遂げていないのに所領をくれとは面倒な叔父だと思ったことでしょう。

木曾義仲と対立

義仲と合流した行家はその後も義仲と行動を共にし、寿永2(1183)年7月28日、義仲とともに入京しました。行家を匿ったことで頼朝との関係が悪くなったにもかかわらずそばに置いてくれた義仲。義仲と頼朝の関係だけ見ても行家が疫病神と揶揄される理由がなんとなくわかりますが、自分の能力は考慮せず、年長者のためプライドばかり高いのか、本来ならば匿ってくれた義仲に恩を感じて都でのふるまい方を知らない義仲にあれこれ教えて助けるべきところを、放置して見て見ぬふりをし、さらには対立するようになります。

行家の不満は、論功行賞で勲功第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家とされ、甥よりも自分が評価されていないことにありました。8月10日、義仲は従五位下左馬頭兼越後守に、行家は従五位下備前守に任ぜられ、数日後には義仲が伊予守、行家が備後守に任ぜられています。いずれにしても行家は義仲よりも劣っていました。客観的に見れば、数々の戦功をあげて活躍した義仲に比べ、これといって目立つ戦功がない行家が評価されないのはもっともなことですが、どうやら本人は納得がいかなかったようです。心の内には、軍事的才能に秀でた甥に対する劣等感もあったでしょう。

こうして、行家は義仲への競争心をあらわにし、粗野な義仲が都で嫌われ者になる一方、自身は院や公家に取り入って好感を得ました。義仲は後白河院が再三平家追討のため西国へ迎えというのにもなかなか頷かず京都に留まっていましたが、その理由には自分がいない間に行家が暗躍して京都での立場を奪われかねないという不安があったものと思われます。この不安は的中し、9月に義仲がしぶしぶ出陣すると、京都に残した家臣から「行家が法王に殿の悪口を言っている」という知らせが届き、義仲はすぐさま軍を返して京都へ戻っています。

行家は義仲を避けるように播磨へ下り、平家軍の平知盛・重衡と戦ってまたもや敗走しました。その後は河内国に逃れ、頼朝がよこした義経ら義仲追討軍を待っていましたが、ここでも義仲の家臣・樋口兼光に追われて紀伊国まで逃れました。

義経とともに頼朝と敵対し、敗れる

行家は義仲と対立し、義仲を消耗させました。義仲の滅亡に、行家の行動は無関係ではなかったでしょう。行家は同じように、今度手を組んだ義経を滅ぼす一因にもなるのです。

義経と頼朝が対立するようになり、行家は義経と手を組みました。文治元(1185)年8月、頼朝は義経の動きを警戒するのと同様に行家の行動も監視させており、義経には行家を追討するよう命じていました。しかし義経は渋ります。このころ義経が頼朝の知らないところで勝手に伊予守に補任されていたことがふたりを決裂させたとされていますが、行家追討の件も関わっているのかもしれません。

10月13日、義経は後白河院に頼朝追討の命を下してほしいと頼み、18日に院宣が発せられました。同29日、『吾妻鏡』によれば義経には九国地頭が、行家には四国地頭が与えられたとされています。しかしふたりは頼朝を追討するだけの兵を集めることができず、11月6日、摂津国大物(現在の兵庫県尼崎市)から船で九州をめざして都落ちしました。11月11日には、義経・行家追討の院宣が下されています。

一路西国をめざしたふたりでしたが、船は突風を受けて転覆し失敗に終わります。行家は和泉国(現在の大阪府南西部)に漂着してそのあたりに潜伏していましたが、翌文治2(1186)年5月、頼朝に派遣された北条時定、常陸房昌明らに発見されて捕えられ、12日に赤井河原で梟首されました。

おわりに

軍を率いる指揮官としての能力はありませんでしたが、以仁王の令旨を全国に伝えることを任され、各地の武士たちを説得するだけの弁舌が立ち、交渉力に長けていた行家。それを生かし、頼朝の下で活躍する道もあったのかもしれません。しかし甥たちの下につくことを嫌って何度も手を組む相手を変え、みじめな最期を迎えたのでした。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
  • 『日本人名大辞典』(講談社)
  • 元木泰雄『源頼朝 武家政治の創始者』(中央公論新社、2019年)
  • 下出積與『木曽義仲 (読みなおす日本史)』(吉川弘文館、2016年)
  • 上杉和彦『戦争の日本史6 源平の争乱』(吉川弘文館、2007年)
  • 五味文彦編『別冊歴史読本01 源氏対平氏 義経・清盛の攻防を描く』(新人物往来社、2004年)
  • 校注・訳:市古貞次『新編日本古典文学全集45 平家物語(1)』(小学館、1994年)
  • 校注・訳:市古貞次『新編日本古典文学全集46 平家物語(2)』(小学館、1994年)
  • 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。