「梶原景時」鎌倉殿の13人のひとり。頼朝の信任厚い文武両道の武士

石橋山の戦いで源頼朝を助け、以降彼の腹心として活躍した梶原景時(かじわら かげとき)。度々義経と対立したことに加え、景時の讒言が義経没落の原因を作ったとして、義経を主役にした物語では悪人として描かれがちです。

義経との関わり以外でも、他の御家人への讒言や暗殺など嫌な面が目立つ景時ですが、幕府の内外からその高い能力を評価されてもいました。景時=悪人という先入観を捨て、そんな彼の生涯を見てみましょう。

景時と梶原氏

梶原氏―坂東平氏の流れをくむ一族―

梶原氏は相模国鎌倉に拠点を持つ鎌倉氏の一族になります。鎌倉氏は平安時代の中頃に成立した坂東平氏の流れをくむ一族であり、清盛ら伊勢平氏と同じ先祖を持ちます。つまり梶原氏は氏族としては平氏に該当することになります。

とはいえ、景時の曽祖父の代には河内源氏の源義家(頼朝の祖先にあたる)に仕えており、以降一族は源氏の家人といえる立場にありました。しかし、義家の子孫である源義朝が平治の乱(1159年)で敗れてからは、平家に従っていました。

「景時は平氏の出なのに源氏の頼朝に味方した」と言われることもありますが、上記のように一族は元々源氏の家来だったのです。そもそも氏族の違いは対立の要因にはならず、源平間での婚姻や主従関係の締結は普通に行われていました。当時の武士同士の対立は血縁より、土地などの権益を巡る争いに端を発するものがほとんどです。

京で貴族から和歌を学ぶ

景時は教養があり、和歌の才があったことで有名ですが、これは京の徳大寺実定という貴族から学んだものだと考えられています。実定は優れた和歌を詠む教養豊かな人物で、昔徳大寺家に出仕していた景時はその下で和歌を学んだようです。

東国武士が京で和歌を学んでいたと聞くと意外かもしれません。しかし当時、武士の多くは仕事で定期的に京を訪れており、貴族と交流することもありました。そのため、地方に住む武士も京での仕事を経て、教養を身につけ、人脈作りをしていたことが明らかになっています。

そのため、当時の東国武士の多くは京の文化に触れる機会があり、それなりの教養を持っていたと考えられています。「東国武士ながら教養があった」とされる景時ですが、他の東国武士が無教養だったのかというとちょっと疑問です。

治承・寿永の内乱と景時

治承4(1180)年4月、後白河法皇の第3皇子・以仁王が平氏打倒のため反乱を起こします。この反乱は平氏によって早々に鎮圧されてしまいますが、この事件を皮切りに全国で武士たちの反乱が相次ぐようになります。そんな中同年8月、伊豆国にいた流人・源頼朝も立ち上がります。

頼朝の挙兵と出会い

伊豆で挙兵した頼朝の前に、伊豆の隣国相模国の武士・大庭景親(おおばかげちか)が立ちふさがります。梶原氏は大庭氏と同じ一族なため、景時はこの時大庭勢の中にいて頼朝と敵対する立場にありました。

戦いは数に勝る大庭軍の圧勝に終わり、敗走した頼朝らは山中に逃れます(石橋山の戦い)。大庭軍は執拗に追撃をかけ、挙兵早々頼朝は絶体絶命のピンチを迎えます。

この戦いで、景時は山中に逃れた頼朝の所在を知りながら、あえて景親には教えず、別の山に導いたとされます。頼朝と景時の出会いにまつわる有名なエピソードですが、別の史料には景時は頼朝挙兵時から付き従っていたとも書かれているので、この頃の景時の去就はよく分かっていません。見逃したという上記の話も、どの程度事実を伝えているかは不明です。いずれにせよ、何とか窮地を脱した頼朝は安房国へと脱出します。

頼朝の下へ

その後勢力を回復し鎌倉へ入った頼朝の下へ帰順した景時は、養和元(1181)年正月にようやく対面を果たします。景時と対面した頼朝は、彼の話術の巧みに注目し、いたく気に入ったとされます。教養があり、特に弁舌が立つことが評価されたのでしょう、景時は侍所(さむらいどころ)の次官である所司に任命されます。

侍所は主に御家人の管理・統制を主要業務とする、いわば人事部のような機関です。人事の他にも幅広い業務に対応する必要があったので、事務能力に長けた景時だからこその抜擢だったのでしょう。ここで景時は御家人の出仕管理の他、鶴岡若宮の造営や頼朝の妻・北条政子出産時の雑事まで、様々な仕事に携わりました。時には怪しい噂のある御家人の暗殺までこなし、頼朝の信任を勝ち取っていったのです。

義経麾下として上洛

寿永3(1184)年、京に陣取る木曾義仲を倒すため、頼朝は弟の義経を大将とした軍勢を派遣します。景時も義経に従って上洛し、義仲との戦いでは息子の景季(かげすえ)が武功を立てています。景時は義仲追討に際して、死者や捕虜の詳細なリストを作成して鎌倉に報告しており、彼の実務能力の高さを頼朝は喜んだといいます。

在京中の景時は義経の部下として主に朝廷との連絡・交渉役にあたっていました。もちろんこれは景時の能力あってこその役目ですが、上述した徳大寺家への出仕経験も大きく役立ったことでしょう。同時代を生きた僧・慈円はその日記『愚管抄』の中で景時のことを「鎌倉本体ノ武士」と評しており、京の貴族からも高い評価を得ていたようです。

戦場の景時

先の義仲との戦いを制した頼朝軍は、寿永3(1184)年2月、摂津国で平家軍と激突します(一ノ谷の戦い)。ここまで事務仕事ばかり目立つ景時ですが、『平家物語』では戦場での活躍も描いています。一ノ谷の戦いにおいて、平氏の陣に突撃を仕掛けた景時の一党でしたが、深入りした息子・景季が敵陣に取り残されてしまいます。それ知った景時は慌てて敵陣へと引き返します。「この世に生きていようと思うのは子供のため。景季を失ったら、この命が助かっても何の意味もない」と、夢中で我が子を探し回ります。

敵陣の中で馬を討たれ、絶体絶命のピンチに陥っていた景季。やっとのことで息子の元へ駆けつけた景時は、景季を励まして敵の包囲を突破、見事救出に成功します。「梶原の二度駆け」と呼ばれるこの場面には、景時の武勇はもちろん、子を想う彼の人間性も描かれているように感じられます。

義経との仲は?

平氏追討が進んでいく中で、景時は西国御家人の組織化も担当するようになります。これは新たに侍所の仕事として加わったものらしく、東国武士は鎌倉にいる侍所別当の和田義盛が管理・統率していました。東西で手分けして武士たちの統率にあたっていたと推察されています。

平氏との戦いの中で、景時は上司である義経と作戦を巡ってしばしば対立したとされます。屋島の戦いで、軍船に逆櫓(さかろ)を付けるべきか否かで激論となったという話が特に有名でしょうか(逆櫓論争)。また壇ノ浦の戦い後、鎌倉への報告書で義経の態度や采配を酷評しています。

ただ、平氏追討戦で景時と義経は別の部隊にいたようなので、上記の論争が史実かどうかよく分かっていません。また先の報告書も、あくまで御家人の管理役としての見解と考えられるので、景時と義経の間にどの程度個人的な対立があったのかは不明です。

キッチリとした仕事に定評のある景時のことです。お目付け役として、たとえ上司で主君の弟が相手でも、決して評価の手は抜かなかったのかもしれません。

鎌倉幕府と景時

壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼし、挙兵の目的を達成した頼朝軍でしたが、問題はここから。戦時に反乱軍として出発した頼朝軍は、自らを平時に対応させるため組織改革を行う必要があったのです。

義経の没落

平氏追討に最も功績のあった義経ですが、彼と頼朝の間には微妙な空気が流れていました。義経が頼朝と対立、没落を余儀なくされた原因については、膨大な研究が積み重ねられています。とても解説しきれませんので省略しますが、従来言われるような景時の讒言が全ての元凶というわけではありません。彼ら兄弟は軍事面でも政治面でも、様々な問題を抱えていたのです。

頼朝との対立が決定的となった義経は兵を挙げようとしますが失敗、奥州平泉の藤原秀衡の元へ逃げ込みます。しかし、文治5(1189)年に秀衡の後を継いだ息子・泰衡によって殺害されてしまします。鎌倉へ送られた義経の首を検分したのは景時でした。

幕府の重鎮として

平氏を滅ぼし、義経を排除した頼朝ですが、鎌倉の政権の安定のためには奥州藤原氏の勢力も邪魔でした。義経を殺害し敵意がないことを示した泰衡の意向を無視して、頼朝は奥州への出兵を決断します(奥州合戦)。景時もこの合戦に参加し、捕虜の尋問や人事など、事務的な面で活躍しています。

『吾妻鏡』には、この頃の景時は不遜な態度や、他の御家人に対する讒言などの記事が多々見られます。内容的に景時の嫌な面が引き立っていますが、上述したように景時は御家人の管理役として、御家人らの態度や失態を戒める立場にあったことを忘れてはいけません。

建久元(1190)年の頼朝の上洛に際しては、景時は侍所職員として和田義盛と共に「随兵(頼朝に付いていく行列の構成員)」の差配役を任されます。この行列は周りに幕府の力を見せ、同時に参加者に頼朝との主従関係を示す大切なものです。

先に頼朝軍の組織改革について述べましたが、戦争が終結した今、こうした儀礼的な行事への御家人の動員は、侍所の重要な仕事の一つでした。その後の上洛でも景時と義盛は随兵の統率役をしており、幕府内の重要なポジションにいたことが分かります。

最後

正治元(1199)年正月、頼朝が死去すると後を継いだ頼家に引き続き仕え、幕府宿老13人による合議制が置かれると、そのメンバーに選ばれます。実務能力に長け、管理職として辣腕を振るってきた景時だけに、幕府内での影響力も大きかったのですが、合議制が置かれて程なく事件が勃発します。

正治元年10月、御家人らによる景時排斥の声が上がります。申状が作成され、これに同意した御家人は66人にも上りました。その中には長年侍所で仕事を共にしてきた和田義盛の名前もありました。

申状を見た頼家は景時に弁明を求めますが、景時は弁明せず一族を率いて自分の所領に引き籠ってしまいます。これによって事態は悪化、謀反の疑いを持たれた景時は、翌年の正月に一族もろとも攻め滅ぼされてしまします。

申状から推察するに、御家人の多くが景時に不満を持っていたのは確かなようです。職務上恨みを買いやすい立場だったといえますが、厳格な判断を下す様は御家人らの目には傲慢に映っていたのかもしれません。侍所の同僚である和田義盛が積極的に景時排斥に動いていることから、義盛と職務上の対立があったとする向きもあります。

文武両道で職務に忠実だった景時でしたが、それ故に反発を招いて滅ぼされてしまったのは何とも皮肉なことです。


【主な参考文献】
  • 滑川敦子「和田義盛と梶原景時―鎌倉幕府侍所成立の立役者たち―」(野口実編『治承~文治の内乱と鎌倉幕府の成立(中世の人物 京・鎌倉の時代編 第二巻)』清文堂出版、2014年)
  • 『坂東武士団の成立と発展』(戎光祥出版、2013年、初出1982年)
  • 野口実『坂東武士団と鎌倉』(戎光祥出版、2013年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
篠田生米 さん
歴オタが高じて大学・大学院では日本中世史を学ぶ。 元学芸員。現在はフリーランスでライター、校正者として活動中。 酒好きなのに酒に弱い。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。