「和田義盛」頼朝や草創期の鎌倉幕府を支えた初代侍所別当

篠田生米
 2022/02/17
和田義盛のイラスト

三浦一族の一人・和田義盛は、挙兵した源頼朝に早い段階から協力し、侍所別当として頼朝軍の軍制を支えました。武勇に優れたとされ、源平合戦では各地を転戦して功績を挙げています。頼朝死後の鎌倉幕府では、宿老として13人の合議制のメンバーにもなりました。

歴史の教科書では初代侍所別当としてその名がありながら、幕府成立後ほどなく和田合戦で敗死を遂げるという極端な登場の仕方をしています。そんな義盛がどのような生涯を送ったのか、詳しく見てみましょう。

三浦一族の一人、和田小太郎義盛

和田を名乗る

和田義盛は久安3(1147)年、杉本義宗の子として生まれます。義宗の父、つまり義盛の祖父は、相模国の有力武士である三浦義明です。義明は同国三浦郡(現神奈川県横須賀市・三浦市・葉山町)に本拠を構えて地方官僚的な役目を担っていました。

三浦氏は古くから源氏(河内源氏)と深い関係を有していました。特に義明は、頼朝の父・義朝が東国で活動する際の後ろ盾にもなりました。その縁もあり、保元・平治の乱では義朝に従って戦っています。義朝の敗死により、その関係は途切れてしまいますが、伊豆で流人生活を送る頼朝のことは気にかけていたのかもしれません。

そんな三浦一族の中で、義盛は立場的には庶流にあたります。義盛は三浦郡和田郷(現三浦市和田)を本拠とし、「和田」の苗字を名乗ったとされます(苗字の地については諸説あり)。

頼朝の挙兵

治承4(1180)年、後白河法皇の第3皇子・以仁王が平家打倒の兵を挙げた事件を皮切りに全国で武士の反乱が勃発するようになります。源平合戦こと治承・寿永の内乱の開幕です。

伊豆で流人となっていた源頼朝も同年8月に挙兵、伊豆国目代の山木兼隆を襲撃し、これを討ち取ります。三浦義明は頼朝に味方することを決め、一族を率いて本拠を出立、義盛も弟・義茂と共に義明の軍勢に参加しています。

頼朝との合流を目指して進軍する三浦勢でしたが、大雨で増水した川に行手を阻まれます。渡河に苦戦している間に、頼朝は平家方の大庭景親に敗れ行方不明になってしまいます。

頼朝が行方不明とあってはどうしようもありません。渋々引き返す三浦勢でしたが、途中鎌倉由比ガ浜で平家方の畠山重忠の軍勢と遭遇、これと戦闘になります。双方に死者が出る事態となりますが、どうにか停戦が成り、三浦勢は本拠の三浦半島まで引き上げます。

ところがその数日後、先の畠山重忠が軍勢を引き連れて三浦氏の本拠である衣笠城に攻めて寄せてきました。義盛らは必死に防戦しますが、連日の戦闘による疲弊で限界を迎えた三浦勢は、とうとう城の放棄を決定します。義盛らは頼朝と合流すべく安房国へ脱出しますが、長老の義明はそれを拒み、城に残って討死を遂げたといいます。

なぜ頼朝の元に?

先に述べた通り、三浦氏と河内源氏は深い関係を有していましたが、三浦氏が頼朝の挙兵に参加した理由はそれだけではなかったようです。

当時相模国内では先の大庭景親ら親平氏方の武士らが勢力を増していました。三浦氏はそれらに押され、国内での立場が悪化していたのです。大庭景親を倒し、国内で勢力挽回を図るために頼朝の挙兵に賭けた、という現実的な面も考えられています。

これは三浦氏に限ったことではなく、頼朝の挙兵に協力した武士の多くは、何らかの形で親平氏方の在地武士によって不利益を被っていました。「源氏再興のために!」というより「頼朝の下で頑張れば、今の状況を改善できるかも」という目論見で、頼朝の元へ来た武士の方が多かったと思われます。

再起

同年9月、頼朝ら一行は安房国で義盛ら三浦一族と合流、再起を図るため東国各地の武士に参陣を命じます。この時、義盛は上総から下総にかけて大きな勢力を持つ上総介広常の元へ、使者として派遣されています。

その後、頼朝の元へは続々と武士が集い、かつて敵だった畠山重忠らも帰参してきました。鎌倉へと入った頼朝は、三浦義澄や上総介広常らの勧めもあり、東国の地盤固めに乗り出します。頼朝軍の背後を脅かす常陸国の佐竹氏討伐が決まると、義盛らは軍勢を率いて佐竹氏を攻撃、これの排除に成功します。頼朝の東国支配は着実に進んでいきました。

内乱の激化と義盛

徐々に勢力を増す頼朝軍。しかし当時の官軍は平氏軍なので、頼朝軍はあくまで非公式の反乱軍でしかありません。来る戦闘や上洛に備えて、組織力を強化する必要がありました。

侍所別当に任命

佐竹氏攻めを終えた頼朝は、義盛を侍所の別当(長官)に任命します。侍所は御家人の管理・統制を主要業務とする機関です。義盛は予てから武士たちの統率役になることを望み、以前から頼朝にリクエストしていたといいます。

念願のポストを手にした義盛のやる気は益々高まったに違いありません。頼朝としても、徐々に増えつつある味方武士の統制を図ることは急務でした。侍所別当となった義盛は武士らの出仕管理や儀礼の差配のほか、平氏軍防御のため遠江国へ出動したりしています。

御家人統制が主業務とはいえ、戦争の激化や頼朝の地位上昇に伴い、侍所には軍事から家政まで様々な業務をこなすことが求められました。義盛は専ら軍事面を担当し、家政面は所司(次官)の梶原景時が務めたようです。

義盛の出陣

頼朝の弟・義経を大将とした軍勢が鎌倉を立ち、木曾義仲や平家との戦いが進行するにつれ、戦場は西へと移っていきます。上記に伴う侍所の仕事は、義経の補佐として従軍していた梶原景時が担当しました。彼は持ち前の事務能力で、朝廷との連絡・交渉から西国御家人の組織化までこなしました。

一方の義盛は鎌倉に駐在し、東国武士の管理・統制に加え、不穏分子への対応のために奔走していました。別当と所司で侍所の職務を分掌し、幅広い業務に対応していたようです

元暦元(1184)年8月、平家追討のため頼朝の弟・範頼の出陣が決まると、義盛は補佐として従軍することになりました。義経に従った景時と同様に、範頼の下で御家人をまとめるために付いて行ったと考えられます。ついに義盛も平家追討戦に参戦することとなったのです。

範頼軍の苦戦

範頼遠征軍の目的は九州へと渡り、讃岐国屋島に拠点を構える平家軍の背後を遮断することでした。範頼軍は北条義時や三浦義澄といった頼朝軍の主力を引き連れて進軍しますが、予想外の苦戦を強いられます。折からの飢饉で兵糧が不足し、平家軍の妨害で渡海用の船も調達できず、中々九州に渡れずにいました。戦いの長期化により、年が明ける頃には範頼軍の士気は低下し、義盛ですら鎌倉に帰りたがる有様だったといいます。

それでも何とか船を調達した範頼軍は、九州へと上陸して平家方武士を撃破、平家軍背後の遮断に成功します(葦屋浦の戦い)。この間に本拠の屋島を義経が攻撃してこれを攻略(屋島の戦い)、平家を長門国彦島に追い詰めます。義盛ら東国武士の長い遠征もようやく終わりが見えてきました。

壇ノ浦の戦い

追い詰められた平家軍は総力を結集して決戦を挑みます。水軍を率いて直接平家軍と当たったのは義経軍で、義盛ら範頼軍は陸地から矢を射かけて義経を援護したといいます。『平家物語』では、船に乗る平家軍に遠矢を射かける義盛の弓術の巧みさが描かれています。

序盤こそ平家軍優勢で進みますが、次第に追い詰められ、戦いは源氏方の勝利に終わります。総帥・平宗盛が率いる平家一門はみな自害、あるいは捕虜となり、頼朝軍による平家追討がついに成し遂げられました。

混迷の鎌倉幕府

壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした頼朝軍でしたが、一件落着とはいきませんでした。戦時に反乱軍として出発した頼朝軍は、自らを平時に対応させるため組織改革を行う必要があったのです。鎌倉幕府として各種制度が整っていく一方で、古参の御家人らの周囲には不穏な空気が漂うようになっていきます

戦時から平時へ

頼朝と敵対した義経が死に、文治5(1189)年の奥州合戦で奥州藤原氏を下した頼朝は、建久元(1190)年に念願の上洛を果たします。このとき義盛は侍所職員として、梶原景時と共に「随兵(頼朝に付いていく行列の構成員)」の差配役を任されています。この行列は周りに幕府の力を見せる儀礼としての役割もあり、同時に参加者に頼朝との主従関係を示す大切なものでした。京都滞在中の諸儀礼でも、義盛・景時が主体となって御家人の統制にあたり、後の上洛時にも義盛と景時が侍所別当・所司として各所の差配を担当しています。

奥州合戦を除き、基本的には大きな戦闘が無くなったので、侍所の職務は戦場ではなく、儀礼の場で必要となりました。戦争のための軍事動員や統率ではなく、幕府儀礼におけるそれらが求められるようになったのです。

義盛や景時ら侍所職員の活躍もあり、戦時から平時へ対応するための組織改革を遂げていく頼朝軍。彼らは鎌倉幕府として順調なスタートを切ったかに見えました。

頼朝の死と同僚たちの粛清

正治元(1199)年正月、挙兵当初から支えた頼朝が死去します。義盛は彼の後を継いだ頼家に引き続き仕え、幕府宿老13人による合議制が置かれると、そのメンバーに選ばれます。

同年10月、幕府宿老らを中心に梶原景時排斥の声が上がります。景時弾劾状が作成され、これに同意した人物は66人にも上りました。この中には義盛の名前もあり、彼は排斥運動自体にもかなり積極的に関与していました。同じ侍所職員として、長く共に仕事をしてきた景時ですが、義盛との間には仕事関連で何らかのトラブルを抱えていたと考えられています。

景時の粛清を皮切りに、共に内乱を乗り越えてきた御家人らの粛清が相次ぐようになります。義盛もそれらの多くに関与することになりました。建仁3(1203)年には比企能員(ひきよしかず)が北条氏との抗争で、2年後の元久2年には、畠山重忠が謀反の疑いで滅ぼされます。どちらの争いでも、義盛は討伐軍に加わっています。かつての同僚の粛清に関わり続け、幕府重鎮の顔ぶれが変わる中、その力を保ち続けた義盛ですが、自身にも粛清の魔の手が迫っていました。

和田合戦と最後

建暦3(1213)年2月、信濃国の御家人・泉親衡の陰謀が露見します。元久元(1204)年に暗殺された頼家の遺児を将軍に擁立しようとする企みです。幕府の調査によりこの事件に義盛の子である義直・義重と、甥の胤長の関与が発覚します。義盛の懇願により義直・義重は許されますが、胤長のみ赦されず、配流となってしまいます。

この処遇と、執権・北条義時の一連の対応に反発した義盛と一族は、同年5月2日に蜂起します。義盛は挙兵の直前「身内の雪辱を晴らさなければ気が済まない!」と逸る一族を抑えようと動いてはいたようですが、結局彼らの意見を優先したようです。鎌倉の市中で激しい戦闘が繰り広げられますが、幕府の大軍の前に敵わず、翌3日に合戦は和田方の敗北で終結します。義盛は討ち取られ、67年の生涯を閉じました。

侍所別当として御家人を統制する立場にいながら、一族の私憤のために殉じた義盛。やられたらやり返す!というのは、武士社会では当たり前の行動規範だったので、彼の選択も当然といえば当然です。とはいえ、長く侍所別当を務めてきた義盛にとって、公を棄て私に走ったこの蜂起は苦渋の決断だったのかもしれません。


【主な参考文献】
  • 滑川敦子「和田義盛と梶原景時―鎌倉幕府侍所成立の立役者たち―」(野口実編『治承~文治の内乱と鎌倉幕府の成立(中世の人物 京・鎌倉の時代編 第二巻)』清文堂出版、2014年)
  • 野口実『坂東武士団と鎌倉』(戎光祥出版、2013年)

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  この記事を書いた人
篠田生米 さん
歴オタが高じて大学・大学院では日本中世史を学ぶ。 元学芸員。現在はフリーラン ...

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