今さら聞けない戦国武将の肖像画。ちょっとした疑問点をすっきり解説!
- 2022/03/11
戦国武将の姿を知る手がかりが肖像画です。多くの戦国武将の姿が何らかの形で現在まで伝わっています。有力な武将のケースだと、様々な機会に肖像画を制作しており、何枚も伝わっていることも少なくありません。今回はそんな戦国武将の肖像画について、種類や描かれている衣服などを解説します。
【目次】
肖像画のギモン1:いつ描かれたのか?
生前(寿像)
モデルの武将が存命中に描いた肖像画を「寿像」と言います。多くの場合は本人を前にして描いているので、多少の美化もあるでしょうが、おおむね本人に近い絵だと考えられます。有名な寿像は、毛利元就像(豊栄神社蔵)、柴田勝家像(福井市立郷土歴史博物館蔵)、本多忠勝像(良玄寺蔵)があります。本多忠勝は8度も書き直しを命じて仕上げたこだわりの作と伝わり、肖像画に登場する具足も伝来します。
また、徳川家康が三方ヶ原の合戦後に描かせた「徳川家康三方ヶ原戦役画像」も有名です。家康というと太った印象がありますが、この肖像画にある30歳の家康はほっそりしており、イメージとかなり違うことがわかります。
死後(遺像)
モデルの武将が亡くなってから描いた肖像画を「遺像」と言います。大半の肖像画はこちらになります。描かれた時期は、死後間もない時から死後数百年後まで様々です。たとえば朝倉義景像(心月寺蔵)は朝倉家滅亡の翌年には完成していることが分かっていますが、真田信繁像(上田市立博物館蔵)は江戸時代の半ば以降の作です。
遺像は多くの場合、一周忌や三回忌といった供養のタイミングにあわせて制作されます。また真田信繁のように江戸時代の文芸作品で人気になり、イメージ図としての肖像が描かれることもあります。前者であればまだ本人の面影があるかもしれませんが、後者では全く関係ない絵になることも。
肖像画のギモン2:誰が描いたのか?
絵師
肖像画が欲しい時は、プロの絵師に依頼をして描いてもらいました。最も有名な、緑の肩衣をつけた織田信長像(長興寺蔵)は、狩野派の絵師・狩野秀信が描いています。足利義輝像(国立歴史民俗博物館蔵)は、京都の絵師・土佐光吉が描いています。その他
肖像画はプロの絵師以外が描くこともあります。先述した柴田勝家像は、北庄城に籠城した折、居合わせた僧侶が描いたと伝わっています。また、宣教師が描いたという西洋画風の織田信長像が三宝寺にあります。原画は失われていますが、事実であれば、宣教師の手によるはじめての肖像画とできる品です。珍しい例として、肉親が自ら描いた肖像画もあります。武田信玄の弟・武田逍遥軒は絵がうまく、自ら武田信玄像(山梨県立博物館蔵)・武田信虎像(大泉寺)などを描いています。
コラム:肖像の修正
国立歴史民俗博物館所蔵の足利義輝像は、下絵が京都市立芸術大学芸術資料館に残っている珍しい例です。下絵での足利義輝は、頬に疱瘡(天然痘)の跡があってデコボコしている上、額にも横ジワがはいり、髪もかなり薄くなっています。表情も眉間にしわが寄った厳しい顔つきで、怖い目をしています。
しかし、完成した肖像画では、顔のデコボコはみごとに「修正」され、つるんとしたお肌に。額のシワもなく、髪もやや濃くなっている様子。怖い目も和らげられて、征夷大将軍らしい威厳のある表情になっています。
戦国武将たちの姿も「加工」や「修正」があるものとして見たほうがよいかもしれません。
肖像画のギモン3:どんな服を着ているのか?
公家の服(束帯・直衣など)
戦国武将の肖像画で比較的多いものは、公家の服を着ている肖像画です。豊臣秀吉の天下統一以降は、武士であっても公家の位を持つ者が出てきたので、彼らの「オフィシャルな格好」として公家の服が候補の1つになったためです。晩年の徳川家康の肖像画(大阪城天守閣蔵)や伊達政宗像(仙台市博物館蔵)などは、最も格式の高い「束帯(そくたい)」で描かれています。
似ていますが、毛利輝元像(毛利博物館蔵)は一段格式が低い「衣冠(いかん)」です。たしかに「束帯」より一段下がりますが、戦国時代では束帯を着る機会も滅多になく、衣冠でも十分格式の高い服装です。
豊臣秀吉像(高台寺蔵)の白い着物は「直衣(のうし)」です。こちらは公家の普段着で、格式は「衣冠」より低いものですが、逆に普段着で内裏に出仕できるのは、身分の高いごく一部の人に限られた特権でした。
武家の服(大紋・肩衣など)
戦国武将の肖像画には、武家の礼服を着ている姿も多数見られます。武家の礼服は「直垂(ひたたれ)」です。侍烏帽子に直垂姿の肖像画は多数あります。直垂の中でも、胸紐の下などに大きな紋を入れたものを「大紋(だいもん)」と呼び、格式が高い着物とされました。前出の毛利元就像や、北条氏康像(早雲寺蔵)などがそれにあたります。
時代が下ると、江戸時代の裃に似た「肩衣(かたぎぬ)」も登場します。織田信長像や斎藤道三像(常在寺蔵)、加藤清正像(東京大学史料編纂所蔵)がその姿で描かれています。江戸時代の裃と違い、身頃の幅が広いので、前であわせる形で着用しているのが特徴です。
その他、真田昌幸像(個人蔵)のような普段着の肖像画もあります。
僧服
戦国武将が出家した後だと、法体で描かれることもあります。代表的なものは上杉謙信像(上杉神社蔵)、北条早雲像(早雲寺蔵)、朝倉義景像、大友宗麟像(瑞峯院)などです。多くは「直綴(じきとつ)」という、裳を縫い付けた上衣をはおり、袈裟をつけた姿で描かれます。中には袈裟だけの姿や、更に格式が高い衣を着ていることもあります。
鎧
戦国武将の肖像画では、鎧を着たものも多く見られます。武勇の誉れ高い故人をしのぶ場合に武装が選ばれることが多いようです。ただし、佐竹義宣像(天徳寺蔵)のように面頬をつけていると、肖像画といっても顔は全く分かりません。前出の武田信玄像は兜を外した姿なので顔がよく分かります。
一方で、戦国武将は甲冑にこだわりがある人も多く、そのような場合は面頬をつけず兜をかぶった姿で描かれています。鎧兜は想像で描かれることもありますが、本多忠勝像や榊原康政像(文化庁蔵)のように、描かれた鎧兜が現存する例もあります。
コラム:武田信玄は武田信玄じゃない?
肖像画は「モデルが誰か」はとても重要な問題です。実は必ずしも全ての作品に、明確に「某肖像画」と書いてあるとは限らないのです。絵に書いてない場合は、伝来した場所から推測したり、他の肖像画と見比べたりして像主を確定します。そのため、研究が進むと像主が変わることがあります。ひと昔前まで、武田信玄といえば、甲府駅前の武田信玄銅像のモデルになった、高野山成慶院蔵の肖像画でした。そこに描かれた武士は貫禄がある風貌で、「甲斐の虎」のイメージにぴったりで、高野山成慶院が武田氏にゆかりのある寺だったことから、長く「武田信玄像」とされていました。
しかし、武田家の家紋がどこにも描いていないのは不審です。更に、この肖像画の絵師・長谷川等伯と武田家に接点がないことも不安要素です。そのような点から検討が進み、現在ではこの絵のモデルは武田信玄ではなく、能登畠山氏の畠山義統ではないかと言われています。
このようなモデルの見直しは、今後もあるかもしれません。肖像画を細かく観察すると、もしかしたら皆さんも伝来の違いに気づくかも?
おわりに
今回は肖像画の作成時期や作成者、服装の概説をしました。肖像画は戦国武将の姿を現代に伝えてくれる貴重なツールです。同時に、戦国武将は権力者でもあるので、肖像画は単なる絵ではなく、武将やその子孫が「見たい・見せたい姿」でもあります。
武将の姿を愛でるだけではなく、そこに関わる人々の思惑を読み取るのもまた面白いかもしれません。
【主な参考文献】
- 二木謙一・須藤茂樹『戦国武将の肖像画』(新人物往来社、2011年)
- 佐々悦久『ビジュアル選書原色再現江戸大名家藩祖の肖像画』(新人物往来社、2010年)
- 藤本正行『鎧をまとう人びと』(吉川弘文館、2000年)
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