「源実朝」武門の棟梁の和歌が、百人一首に掲載された!?非業の死を遂げた源氏最後の鎌倉殿

源実朝の像(『國文学名家肖像集』収録、出典:wikipedia)
源実朝の像(『國文学名家肖像集』収録、出典:wikipedia)
源氏の将軍、とりわけ頼朝の後継者たちについては、大河ドラマ等ではあまり触れられてきませんでした。最後の源氏将軍となった源実朝(みなもと の さねとも)は、歴史に名を残した歌人でもありますが、その業績についてはほとんど知られていません。今回は実朝がどのように生きたのか、その生涯について見ていきましょう。

鎌倉殿・源頼朝の次男として生まれる

建久3(1192)年8月、源実朝は相模国鎌倉で鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の三男として生を受けました。生母は正室・北条政子です。幼名は千幡と名乗りました。

当時、父・頼朝は「鎌倉殿」(鎌倉の統治者。武家の棟梁)として全国の武士たちを束ねる地位にありました。千幡の母・政子も鎌倉幕府初代執権・北条時政の長女であり、強い発言力を有する女性でした。

千幡には長兄・万寿(のちの頼家)がいましたが、正室所生の男子として、後継者候補の一人として位置付けられています。乳母(養育係)には阿波局(政子の妹)と大弐局(加賀美遠光の娘)が担当し、教育を行なっていました。

峻烈なイメージが持たれる頼朝も、子煩悩な一面がありました。同年12月、頼朝は千幡を抱き抱えて御家人たちの前に現れます。頼朝は「みな意を一つにして将来を守護せよ」と述べて御家人たちに千幡を抱かせました。頼朝が千幡や鎌倉の安定を何より願う姿が浮かびます。

この頃の鎌倉幕府は安定期に入りつつありました。敵対勢力であった平家は滅んでおり、鎌倉を離反した源義経や奥州藤原氏も既に亡き者となっています。朝廷を取り仕切った後白河法皇も前年に薨去しており、鎌倉を脅かす存在は無くなりつつありました。

しかし建久10(1199)年、父・頼朝が世を去ります。程なくして兄・頼家が家督を相続。新たな鎌倉殿となりました。


鎌倉殿を支える十三人の合議制と権力闘争

将軍となった頼家は、御家人たちと対立。千幡も巻き込まれる形で歴史の表舞台に登場することとなります。

政治経験のない頼家を支えるため、北条時政・義時らによって十三人の合議制が結成。頼家による直接裁断は禁止されました。しかし頼家は反発。侍所所司・梶原景時や比企氏、限られた近習などばかりを重用していきます。このときから権力争いが本格化し、鎌倉幕府は御家人たちによる内部闘争が始まりました。

正治元(1199)年10月、御家人66名が梶原景時に対する糾弾状を頼家に提出。景時は失脚しています。『玉葉』によると、景時は千幡を鎌倉殿に擁立しようとする陰謀を頼家に訴えましたが、政争に敗れたようです。既にこの頃には、頼家は声望を失っていました。同時に次期鎌倉殿として、千幡に対する期待が大きいものだったことは確かです。

正治2(1200)年、鎌倉から追放処分となった景時は一族を率いて上洛を開始。しかし駿河国で御家人たちの襲撃を受け、一族もろとも滅び去りました。

権力闘争はこれで終わりません。建仁2(1202)年、頼家は将軍宣下を受けて征夷大将軍に就任。正式に鎌倉幕府二代将軍となりました。

頼家は将軍になったことで、自身の権力強化を確実にしていきます。翌建仁3(1203)年、千幡の乳母夫・阿野全成が謀反の罪で捕縛。流罪となる途中で殺害されるという事件が起きます。

全成は頼朝の弟で阿波局の夫です。頼家や千幡にとっては、父方のみならず母方の叔父でした。頼家は身内であっても自分の地位を脅かす人間は敵だと認識していたようです。千幡の命にも危険が迫っていました。

源実朝は和歌に通じた鎌倉殿

鎌倉殿「源実朝」の誕生

強権的な頼家の時代は長くは続きませんでした。

『吾妻鏡』によると、建仁3(1203)年に頼家が病に伏したことで、新たな対立が生まれます。この結果、頼家の長男・一幡が関東、千幡が関西の総地頭となるように発表されたようです。

しかし頼家の乳母父で舅である比企能員が反発。執権・北条時政(千幡の外祖父)の暗殺を企てました。ところが北条時政がを比企能員を誅殺。程なくして比企一族も残らず滅ぼしています。病が癒えた頼家は激怒しますが、伊豆国修善寺に幽閉。将軍職や鎌倉殿の地位を奪われてしまいました。

同年9月、母・北条政子らは朝廷に千幡の家督相続の許可を得るため、頼家が死んだと報告します。
同月には従五位下に叙任。征夷大将軍としての宣下(除目とも)を朝廷から受け、鎌倉幕府第三代将軍となりました。

10月には千幡は北条時政邸で元服。後鳥羽上皇の命によって「源実朝」と名乗ることとなりました。程なくして実朝は右兵衛佐に補任。同職はかつて父・頼朝が任じられた官位でした。

元久元(1204)年、実朝は足元を固めています。7月には幽閉中だった兄・頼家が北条氏によって暗殺。12月には、実朝は後鳥羽上皇の従姉妹である坊門信清の娘(本覚尼)を正室に迎えました。政治経験がないながらも、実朝は着々と三代将軍の歩みを進めていきます。

和歌に通じた鎌倉殿と牧氏事件

政争が続く中、実朝の心を慰めたのは和歌でした。元久2(1205)年4月、実朝は十二首の和歌を詠むなど、将軍でありながら歌人としての一面を見せています。

ところが、実朝の気持ちとは裏腹に、戦乱の気配は一向に止むことはありません。同年6月、平賀朝雅(北条時政の女婿)と武蔵国の有力御家人・畠山重忠の嫡男・重保が対立。朝雅が牧の方(時政の継室)に讒訴します。時政は嫡男・義時や三浦義村らに畠山重忠の討伐を命令。畠山一族はここに滅び去ります。

牧の方はさらに実朝の暗殺を計画し、次期将軍に平賀朝雅を据えようと画策しました。時政は外孫である実朝の暗殺計画に追随しますが、謀略は実朝や政子らの知るところとなります。結果、時政は修善寺に追放。実朝の叔父である北条義時が二代執権に就任しました。

しかし実朝は事件の渦中にあっても和歌に対して傾倒。同年9月には後鳥羽上皇勅撰の『新古今和歌集』を京から運ばせています。

御家人の謀反鎮圧と公暁の帰還

優れた洞察力と藤原定家への師事

実朝の治世は、決して順風満帆ではありませんでした。承元2(1208)年、実朝は疱瘡を罹患。以降、顔に残ったあばたを恥じて、三年にも渡って鶴岡八幡宮を控えるようになります。

八幡宮参拝は、将軍の年中行事の中でも大事な催しでした。影響は将軍の政務においても深刻だと考えられます。疱瘡の後遺症による精神的な打撃は暗い影を落としていました。

承元3(1209)年、実朝は従三位ならびに右近衛中将に叙任。公卿(三位以上)に上ったことで、政治的裁断を直接下し始めていきます。

実朝の政治的洞察力は優れたものでした。北条義時が功績のある郎党や家人を昇進させることを希望します。しかし実朝は由緒を忘れて後難を招くと言って拒みました。後年、北条氏の郎党や家人から長崎氏などの御内人が出現。幕府を動揺させることに繋がるのです。

実朝はあくまで頼朝以来の鎌倉殿と御家人の主従関係を基本に幕府体制を考えていました。その中にあっても、実朝は和歌に対する情熱は衰えていません。歌人で公卿の藤原定家に自作の和歌の評価を頼むなど、歌人としての側面を持ち続けていました。

和歌や蹴鞠への傾倒と御家人たちの謀反

実朝は京文化に対する傾倒を深めていきました。建暦2(1212)年、実朝は「幕府蹴鞠始」を実施。後鳥羽上皇を模しての行動だと考えられます。

風雅を愛する実朝とは裏腹に、御家人の一部は不穏な動きをしていました。翌建暦3(1213)年2月には、泉親衡が頼家の遺児・千寿丸を旗頭に挙兵を計画。北条氏を除かんとしていました。泉親衡の乱には、和田氏からも主だった人間が参加。戦後処理をめぐっても北条氏は和田氏と対立しています。

同年5月には侍所別当・和田義盛が一族を率いて挙兵。将軍御所に火が放たれています。このとき、実朝は鶴岡八幡宮に和歌を添えた願文を奉納。和田合戦の鎮圧を祈っています。

同年9月には、御家人・長沼宗政が畠山重慶(重忠の子)を謀反を計画していると噂されます。実朝は捕縛を命じますが、長沼宗政は殺害。このため実朝は宗政の出仕を差し止めるという沙汰を下します。実朝は和歌に傾倒しつつも、決して公家化したわけではありません。武家の棟梁としての自負を持って行動していました。

同年11月には藤原定家が『万葉集』を送付。12月には実朝の歌が収められた『金槐和歌集』がまとめられています。実朝は歌人としても歴史に名を残していました。

公暁によって命を奪われる

実朝は頼朝と同様、信仰心の厚い青年でした。建保2(1214)年には延暦寺によって焼き討ちされた園城寺再建を命令。在京の御家人らを動かしています。

さらに同年、栄西が『喫茶養生記』を献上され、翌建保3(1215)年には病を見舞う使者を派遣しています。建保4(1216)年には、宗国の僧侶・陳和卿が鎌倉を訪問。陳和卿は、実朝の前世である高僧の「医王山で門弟だった」と話します。実朝はこれを信じたようで、実際に由比ヶ浜から唐船を出航させる計画を実行しています。

将軍でありながら、実朝は実際に宗国の医王山に向かおうとしていました。しかし船は砂浜で損壊。これに納得できない実朝は、宗の能仁寺から仏舎利を求めた上、円覚寺に祀らせています。

大した問題もないように見えましたが、少しずつ実朝の周囲は変わり始めていました。建保5(1217)年、兄・頼家の遺児・公暁が園城寺から鎌倉に帰還。鶴岡八幡宮の別当となりました。実朝からすれば公暁は甥にあたります。

建保6(1218)年、実朝は権大納言、左近衛大将、右大臣へと昇進。武家の任官では類を見ない出世でした。しかし開けて翌建保7(1219)年1月、実朝に思いがけない事件が起きます。

八幡宮から退出して帰る途中、実朝の一行を公暁が襲撃。公暁は「親の敵はかく討つぞ」と叫び、実朝に斬りかかりました。実朝はその場で斬られて絶命。享年二十八という若さでした。戒名は大慈寺殿正二位丞相公神儀。墓所は亀谷山寿福寺にあります。

同日、公暁は追手によって斬殺。公暁は供奉するはずの義時を狙ったとも、事件には他に黒幕がいたとも伝わってきました。確実なことは、実朝の死によって源氏将軍は三代で途絶えたということです。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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