「平将門」とは何者か。圧倒的な強さで関東制圧、50日間の独立王国
- 2022/08/24
平将門(たいらの まさかど)といえば、最強の怨霊として知られています。晒された首が胴体を求めて飛んでいったとか、東京・大手町にある首塚は大蔵省(現財務省)もGHQ(連合国総司令部)も祟りを恐れて移設できなかったとか数々の伝説があります。もちろん、それらも面白いのですが、今回は史実の将門の姿を追っていきたいと思います。
将門が起こした大きな反乱は、その後の武士の台頭にも関わっていますし、独立国家を樹立するという日本史の中でほかに例をみない反乱でした。平将門とは、どんな人物だったのでしょうか。
将門が起こした大きな反乱は、その後の武士の台頭にも関わっていますし、独立国家を樹立するという日本史の中でほかに例をみない反乱でした。平将門とは、どんな人物だったのでしょうか。
平安時代中期に登場した坂東武士の源流
平将門は平安時代中期の人物です。藤原道長の登場前ですが、既に藤原北家は政治を主導し、権勢を誇っている時代です。延喜3(903)年生まれが通説ですが、9世紀末ごろとする見方もあります。父は平高望の三男・平良持。将門の父を「平良将」とする史料もありますが、この時代は兄弟で同じ字を用い、父子で字を継ぐようになるのはもう少し後の時代です。
本拠地は下総国猿島郡、豊田郡。現在の茨城県南西部で、坂東市などにゆかりの地があります。
桓武天皇の子孫
ルーツは桓武天皇。桓武天皇の第3皇子・葛原親王の孫の高望王が臣籍降下して「平」の姓を受け、平高望と名乗り、上総介に任官します。平高望の長男が平国香、次男が平良兼、三男が平良持。さらにその下に平良文、平良正がいます。平良正は多くの系図で将門の従兄弟になっていますが、『将門記』では将門の叔父として登場します。彼らは常陸、下総など関東で勢力を拡大し、桓武平氏の源流となります。平清盛の伊勢平氏も輩出しますが、関東に留まる家系も多く、坂東武士につながるのです。
摂政関白・藤原忠平との主従関係
将門の前半生はほぼ不明ですが、少年のころ、京に上って藤原忠平に仕えました。藤原忠平はこの当時の最高権力者です。菅原道真を追放した藤原時平の弟で、時平死後、藤氏長者(藤原氏トップ)に立ったのが忠平。醍醐天皇を支え、その後、摂政・関白を歴任します。
将門は政界トップとコネがあったのです。地方豪族が京の貴族のもとに子弟を送ることはよくあり、京で官職を得て箔をつけ、地元で貴族とのつながりを誇示します。また、開発した土地を有力貴族や寺院に寄進し、税負担減免の優遇を受ける思惑もありました。
しかし、将門は生涯、無位無官。官位を得る年齢に達する前に京を離れたようです。将門の父・平良持の死期は不明ですが、父の死後、所領など親族間トラブルがあり、それに対応するため帰郷したのではないでしょうか。
日本刀出現に関与? 連戦連勝の将門
平将門の乱と藤原純友の乱を合わせて「承平天慶の乱」といいます。地方反乱が東と西でほぼ同時に勃発しました。将門と純友の共同謀議説は古くからあります。2人で比叡山から京を見下ろし、「都を制圧したら、将門は桓武天皇の末裔だから天皇に、藤原氏出身の純友は関白に就こう」と誓い合ったという話も知られています。ただ、将門と藤原純友が知り合いだった確証はありません。
「承平天慶の乱」発端は親族との確執
将門の乱は親族間抗争として始まりました。承平5(935)年2月、将門は挑発する源扶(たすく)ら3兄弟を撃退。3兄弟の父・源護(まもる)の本拠地である筑波山西麓を焼き尽くし、伯父・平国香も焼死させます。源護は常陸大掾(だいじょう、国司3等官)を務めた大物で、大掾を継いだ平国香や平良兼、平良正を婿に取ります。この閨閥が常陸や下総で幅を利かせ、将門と対立しました。事件をきっかけに戦乱になりますが、この後も基本的には将門の連戦連勝です。
承平5(935)年10月、叔父・平良正の挑戦を一蹴。承平6(936)年7月には平良兼と平良正が平国香の嫡男・平貞盛を誘って将門に挑みますが、これも将門が圧倒。良兼、良正、貞盛の連合軍は隣国の下野国府に逃げ込みました。将門は下野国府を包囲しますが、最終的に包囲を解いて敵を逃します。
この後、反将門勢は一時的に法廷戦術に転換します。訴えられた将門は上京して弁明。重罪とはならず、無事に関東へ戻りました。ところが、帰郷後の将門は平良兼に連敗。承平7(937)年8月、常羽御厩(いくはのみまや)を焼かれました。常羽御厩は官営牧場で、将門の重要拠点の一つです。
11月、またまた事態は一転。朝廷は、平良兼、平貞盛、源護らを追討する官符(命令書)を出します。将門の立場が全面的に認められ、彼らは朝敵となったのです。国家施設である常羽御厩放火が原因でしょうか。なお、官符が出ても関東の国司は非協力的。将門は有利な立場に立ちながら状況は膠着します。
将門の強さの秘密は?
将門の強さの秘密は革新的な戦法と武器開発と想像できます。拠点は霞ケ浦西側。大小の沼が点在する低湿地で、水田が広がる現在とは全く違う風景でした。農作地には不向きでも沼と川が天然の堀となって馬の放牧は可能。製鉄遺跡も多く、武器製造工場も抱えていたと考えられます。日本刀出現に関わっている可能性もあります。馬を鍛え、騎馬軍団を駆使した戦法を仕掛けたとみられますが、馬上での戦いは直刀よりも反った刀、形状が日本刀に近い湾刀の方が有効だったに違いありません。高速移動中に直刀で敵の急所を狙うのは難しく、反った刀でなぎ倒す方が効率も良いはずです。
この時代、弓矢が主要な武器ですが、命中精度も射手の腕次第。もたもたしている間に騎馬軍団で一気に接近して刀でなぎ倒す――
将門は発想の転換ができたのかもしれません。
国府制圧し「新皇」自称、独立王国樹立
天慶2(939)年11~12月、将門は常陸、下野、上野を制圧します。現在の茨城県、栃木県、群馬県です。発端は藤原玄明(はるあき)というならず者。将門のもとに逃げ込みます。しかも途中で郡の倉を襲う強盗事件を起こします。国司は引き渡しを要求。ところが、将門はこうした連中をかばうのです。
将門と国司の交渉は決裂。国司の息子・藤原為憲と将門の従兄弟・平貞盛が3000人の兵で待ち構えていましたが、1000人の将門軍が難なく蹴散らし、そのまま国府を襲撃しました。国府を焼き、印鎰(いんやく、国印と国倉の鍵)を奪います。これは国司の行政権限と財産の奪取。一族の抗争は朝廷への反逆に発展しました。
「1カ国を奪うも関東8カ国を奪うも同じこと」
側近のささやきに将門も同意。どうせ朝廷に咎められるなら力をつけておいた方が交渉の余地もあると考えたようです。12月11日に下野国府、15日に上野国府を襲撃。常陸襲撃のような成り行きではなく、初めから国司の行政機能を標的とし、印鎰のほかに帳簿4種を奪います。将門軍は相変わらず強く、電光石火の電撃戦。この後、関東一円を視察し、各国の国司は逃げ出します。
関東の国司を勝手に任命
天慶2(939)年12月19日、将門は自らを「新しい天皇」として「新皇」を名乗ります。一人の巫女が現れ、「われは八幡大菩薩の使い。天皇の位を将門に授ける」と口走り、民衆兵数千人がひれ伏します。神懸かりなのか、民衆を操る芝居なのか、それとも悪ふざけなのか、議論が分かれるところですが、将門は大まじめでした。
「皇位に就くべきではない」と諫言する弟・平将平らを「世の人は戦いに勝つ者を主君とあおぐ。たとえわが国になくても、多くの事例が外国にあるのだ」と叱り飛ばします。追い出した関東の国司も勝手に任命します。
- 下野守=平将頼(将門の弟)
- 上野守=多治経明(常羽御厩別当=官営牧場管理者)
- 常陸介=藤原玄茂(常陸掾=3等官)
- 上総介=興世王(武蔵権守、将門側近)
- 下総守=平将為(将門の弟)
- 安房守=文屋好立(将門の家臣)
- 相模守=平将文(将門の弟)
- 伊豆守=平将武(将門の弟)
しかし、武蔵守は空席。武蔵は叔父・平良文の本拠地で、親族間抗争で敵対しなかった良文に配慮し、あわよくば味方にという思惑があったのかもしれません。
また、常陸、上総の国司が長官「守」ではなく次官「介」です。朝廷の慣習では上野、常陸、上総の3国は親王任国で、親王を「太守」とし、「介」が実質的トップとして地方行政を統括します。将門は別の国を建てたのに、律義に朝廷のルールを踏襲しているのです。しかも上野はそのルールを無視しています。
一方で将門は太政大臣・藤原忠平に書状を送り、反逆の意図がないことや行動の正当性を切々と訴えます。矛盾や迷いを抱えていたのかもしれません。
乱を制圧したのは藤原秀郷
天慶3(940)年1月、京では将門討伐のため、老貴族・藤原忠文が征東大将軍に任命されます。一方、関東では各国の掾(国司3等官)が任命され、将門追討を命じられます。そのトップが下野掾に任命された藤原秀郷。もともと無位無官で将門と同類の地方豪族です。前年11月に将門に敗れて以来、姿をくらませていた平貞盛、藤原為憲も藤原秀郷に合流します。2月、秀郷と貞盛、為憲の連合軍が将門を攻めます。
将門と秀郷の秘密会談
対決前、将門と藤原秀郷が対面したという伝承があります。将門は髪を結わずに会談に臨み、食事をぼろぼろこぼすという無作法さで、秀郷は「将門はあてにならない、味方をするのはやめよう」と態度を改めたという話です。これは『御伽草子』(室町物語)の「俵藤太物語」や直接関係ない『源平盛衰記』に出てくるのですが、将門のキャラクターを誇張した、いかにも作り話っぽい話です。
神仏の矢に射抜かれる?
最終決戦は2月14日午後3時ごろ。将門は農繁期で兵が集まらず1000人以下、藤原秀郷らは4000人でしたが、戦況は風上に立つ将門が優位に進めました。秀郷軍は2900人の兵が逃げ、残りは精鋭300人。この計算だと相当数の兵が死傷したことになります。将門軍は少数でもやはり強かったのです。しかし、戦場が混乱する間に将門は風下に立ってしまいます。『将門記』は神仏の矢に当たって将門は倒れたと書き、『古事談』は平貞盛の矢が当たって落馬した将門の首を秀郷が取ったと書いています。将門のあっけない最期です。
征東大将軍・藤原忠文が間に合わなかったのは象徴的です。貴族が率いた正規軍ではなく、将門と同類の地方武力集団が乱を鎮圧したのです。朝廷が兵を集めて正規軍を編成する時代は終わり、この後、台頭した武士は私兵を従えて合戦し、覇を競います。
おわりに
軍記物語である『将門記』は将門に批判的でもあり、同情的でもあります。藤原玄明や興世王ら悪役が登場し、将門は粗暴な連中をかばって心ならずも反乱の首領となる図式です。しかし、将門は貧しい者やはみ出し者の代弁者としての自覚があり、行き着く先は朝廷との決定的な対立であることは分かっていたのではないでしょうか。そして大きな野望もあって関東独立を実現しました。しかし、政権維持能力はなく、約50日で崩壊させてしまったのです。この後、武力で天下を牛耳ろうという英雄は数多く登場しますが、朝廷を倒そうとする者は現れません。あくまで朝廷の権威を利用して実権を握ります。朝廷とは別の支配体制を目指した将門は唯一無二の存在なのです。
【主な参考文献】
- 『坂東市本将門記』(坂東市立資料館)
- 福田豊彦『平将門の乱』(岩波書店)岩波新書
- 川尻秋生『戦争の日本史4平将門の乱』(吉川弘文館)
- 源顕兼編、伊東玉美校訂・訳『古事談』(筑摩書房)ちくま学芸文庫
- 緑川新ほか訳『現代語で読む歴史文学 完訳源平盛衰記』(勉誠出版)
- 田嶋一夫ほか校注『新日本古典文学大系55室町物語集下』(岩波書店)
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