「藤原秀郷」平将門の乱を鎮圧した武将の実像とは

藤原秀郷  龍宮城蜈蚣射るの図(月岡芳年画『新形三十六怪撰』より。出典:wikipedia)
藤原秀郷 龍宮城蜈蚣射るの図(月岡芳年画『新形三十六怪撰』より。出典:wikipedia)

藤原秀郷(ふじわら の ひでさと)は、平将門の乱を鎮圧した平安時代中期の武将ですが、大ムカデ退治の「俵藤太」のイメージがあまりにも強く、実像が語られることがほとんどありません。史料が少ないせいもあり、あまり注目されていませんが、武士の起源を考えるうえでとても重要な人物です。藤原秀郷の生涯と実像を追っていきましょう。


罪人だった名門武士の源流

藤原秀郷は生没年不詳ですが、生まれは9世紀末ごろ。『系図纂要』によると、没年は天徳2(958)年です。

『佐野記』では天慶10(947)年2月、63歳で死去、『田原族譜』では正暦2(991)年9月、101歳で死去したとされますが、いずれも後の時代の史料で、あまりあてになりません。そもそも同時代の史料に改元した天暦元(947)年の活動記録があります。

ちなみに逆算すると、『佐野記』では仁和元(885)年生まれ、『田原族譜』では寛平3(891)年生まれとなります。寛平3年生まれだと、将門の乱を鎮圧したとき50歳。これはまあまあいい線いっているのかもしれません。

出身地、活動拠点は下野国南部です。下野国府の周辺地域で、現在の栃木県栃木市あたりですが、秀郷の伝説が数多く残っているのは隣接する栃木県佐野市です。


藤原秀郷を祀る唐沢山神社(栃木県佐野市)
藤原秀郷を祀る唐沢山神社(栃木県佐野市)

また、群馬県千代田町に誕生の地の石碑があります。昭和初期に建てられたかなり新しい石碑ですが、地元の伝承があるようです。

ルーツは藤原北家です。父・藤原村雄は下野国の大掾(だいじょう)でした。掾は長官・守(かみ)、次官・介(すけ)に次ぐ国司3等官。現代に置き換えると、知事、副知事に次ぐ県庁幹部役人です。掾の定員は国の格によって0~2人で、2人なら大掾、少掾と呼び分けます。藤原村雄を下野守、河内守、長門守とする系図もありますが、後世の子孫による先祖の経歴の粉飾です。
祖父・藤原豊沢も下野在住の国司役人。曽祖父・藤原藤成は地方官僚を歴任した貴族です。
系図では「中臣鎌足―藤原不比等―房前(ふささき)―魚名(うおな)―藤成―豊沢―村雄―秀郷……」となっています。



まず、藤原北家の祖・房前の五男・魚名は正二位、左大臣まで上りつめた上級貴族です。ちなみに摂関家として藤原北家の主流となるのは、魚名の兄・真楯(またて)の子孫です。

魚名の五男・藤成は下野介に任命され、離任後も藤成の子・豊沢は母の実家・鳥取氏のもとで育ちます。鳥取氏については詳しいことは不明ですが、下野の史生。書記官のような下級役人です。

秀郷は貴族・藤原氏の末裔ですが、曽祖父・藤成までが京の貴族で、祖父や父は地方役人として生涯を送ったのです。


生涯で分かっている事績は4つ

藤原秀郷の生涯で確認できる行動は4つだけです。

延喜16(916)年8月、秀郷ら18人を流罪とするよう朝廷から国司に命令が下されます。『日本紀略』に書かれています。
延長7(929)年5月、下野国が藤原秀郷の悪行を訴え、朝廷は周辺国を含め、出兵を指示する官符(命令書)5通を出します。『扶桑略記』にあります。
天慶3(940)年、平将門追討に関わる活動や任官の記録が各種史料にあります。
天暦元(947)年閏7月、平将門の弟が謀反を計画していると、京に情報を送ります。『貞信公記』に示されています。

このほか、秀郷に関して言われていることは後の時代に書かれた系図類や物語、伝説が由来となっています。


将門同様、地方の荒くれ者

平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷ですが、前半生に2度も罪人、反乱勢力として扱われているのです。下野掾に就いたのは将門の乱のとき。それまで官位を得た形跡がないのは2度の罪が関連しているようです。

まず、1度目の延喜16(916)年。秀郷とともに罪人とされている18人には、藤原高郷、藤原兼有、藤原與貞がいます。ほかの者の名は分かっていません。藤原高郷は系図での秀郷の弟。藤原兼有、藤原與貞は親族でしょうか。
その朝廷の通達は「(秀郷らの)流罪を重ねて命令する」という内容です。1度目の流罪命令が実行されないので、朝廷から国司に「重ねて」命令が出されたと読めます。実際に刑に服したかどうかは分かりません。13年後に再び地元・下野で国司と衝突していますから、結局、流罪にはならなかったとみられます。

再び罪を問われた延長7(929)年では、国司への秀郷追討命令書が5通出されていて、秀郷は5カ国の国司に匹敵する武力を持っていたと想像できます。しかも、11年後の天慶3(940)年には、平将門を追討する立場で登場するわけですから、追討もされていなければ、軍事力も損なっていないのです。
秀郷はある時点までは将門と同類の地方の荒くれ者だったのです。朝廷からみれば反乱勢力、犯罪組織のトップです。しかもその武力は国司では全く歯が立たず、関東最強。これも反乱時の将門と重なります。

反乱の原因や経緯は不明ですが、延喜15(915)年に隣国・上野国で国司の内紛が起きています。国司(おそらく上野介)の藤原厚載が上毛野基宗、貞並、大掾・藤原連江らに殺害される事件です。時期的に、秀郷はこれに巻き込まれたか反乱勢力に加担した可能性があります。


「平将門の乱」で一転英雄に

地方役人の家に生まれながら、逆に反乱勢力として扱われた藤原秀郷ですが、大逆転の転機が訪れます。
平将門の乱です。

承平5(935)年から将門とその親族の間で戦乱が続いていましたが、天慶2(939)年11~12月、将門は常陸、下野、上野の国府を立て続けに襲撃し、ついには新皇を名乗って関東8カ国の国司に弟や家臣を任命。関東一円を軍事制圧しました。
朝廷は天慶3(940)年1月、東国の軍事実力者8人を各国の掾に抜擢。秀郷もその中の一人で、下野国の掾、押領使に就きました。押領使は警察のような役職です。


当初は傍観?不気味な沈黙

天慶2(939)年12月、平将門が下野国府を襲撃した際、藤原秀郷がどう行動したのか不明ですが、将門の乱の経緯を記す『将門記』には、天慶3(940)年2月、将門討伐の兵を挙げるまで登場せず、将門の関東制圧を傍観していたようです。不気味な沈黙です。
この天慶3年2月に秀郷とともに挙兵したのは、平貞盛と藤原為憲です。

平貞盛は将門の従兄弟ですが、叔父らとともに将門と敵対していました。なにしろ、将門の乱の初っ端で父・平国香が殺害されており、将門は父のかたきなのです。藤原為憲は常陸介(介は次官ですが、親王が守の常陸国では実質トップ)・藤原維幾の子。天慶2(939)年11月、常陸国府で平貞盛とともに将門を攻撃しましたが、敗れ、父・藤原維幾は捕虜となり、平貞盛と藤原為憲は将門に追われて逃げ回っている状態でした。


「古き計あり」老練な戦術

平将門追討に挙兵した藤原秀郷は4000人の兵を動員します。将門の兵は1000人足らず。
天慶3(940)年2月1日、将門は秀郷の挙兵に対応するため、下野国境へ兵を進めます。その後方部隊は、将門軍の副将・藤原玄茂が指揮し、多治経明、坂上遂高ら「一騎当千」の兵が従っていましたが、彼らが秀郷軍と激突。先に行く将門には連絡せず、勝手に戦端を開きます。秀郷は3手に兵を動かし、藤原玄茂の軍勢を撃退したのです。

『将門記』は秀郷の戦術について「古き計(はかりごと)あり」とか「古き計の厳(いかめ)しきところ」と書き、老練さが強調されています。これをもって、秀郷がかなり高齢だったと解釈されることもありますが、戦術が老練なのであって、本人が老人だったとは書かれているわけではありません。ただ、24年前に活動の記録があり、若者でなかったことは確かです。秀郷は藤原玄茂の軍勢を敗走させた後、将門本隊を追撃しました。将門もいいところなく敗走します。

続いて2月13日、秀郷、平貞盛、藤原為憲の軍勢が将門の本拠地に進撃。貞盛は将門の屋敷や周辺の家々を焼き尽くしますが、将門とは遭遇しませんでした。このとき、将門のもとには、いつも参集するはずの8000人の兵が参集せず、400人だけでした。

そして、2月14日午後3時ごろ、最終決戦を迎えます。このとき北側に陣を張った秀郷、平貞盛、藤原為憲の軍勢は強風の風下に立ち、楯も使えない状況。将門が騎馬隊を突進させ、秀郷らは劣勢になります。2900人の兵が逃げ去り、残ったのは精鋭300人。兵数の有利さは将門の猛攻で吹き飛びました。しかし、激しい乱戦の末、陣立てが変わったのか、風向きが変わったのか、秀郷軍が追い風を背にし、状況は逆転しました。

『将門記』によりますと、先頭に立って戦っていた将門は、神仏の矢に当たり倒れたのです。また、『古事談』などでは、平貞盛の矢が当たって将門は落馬し、秀郷がその首を取ったとあります。


武門の名誉職・鎮守府将軍

この後、藤原秀郷は従四位下、平貞盛は従五位上(『将門記』では正五位上)の官位を得ます。四位、五位の官位は主従、上下があり、秀郷が貞盛より1~3ランク上です。四位、五位は貴族とすれば中級ですが、地方の豪族としては破格の官位です。軍功第一は秀郷と評価されたのです。

また、秀郷は下野守、武蔵守、鎮守府将軍に任じられます。時期は史料によって若干の違いがありますが、これもいきなりの出世です。
鎮守府将軍は陸奥に置かれ、奥州の軍事を統括する鎮守府の長官です。鎌倉幕府成立以前、征夷大将軍は臨時職であり、将軍といえば鎮守府将軍でした。この官職こそ武門の名誉であり、最高栄誉職でした。


大ムカデ退治 俵藤太の伝説

冒頭でも示した通り、藤原秀郷のイメージを固めているのは大ムカデ退治の伝説です。『御伽草子』(室町物語)の「俵藤太物語」をはじめ、似た話がいくつも伝承されています。


藤原秀郷の百足退治の絵(勝川春亭 画)
藤原秀郷の百足退治の絵(勝川春亭 画)

近江・瀬田橋(滋賀県大津市)に大蛇が横たわっていて誰も通れません。秀郷は大蛇を恐れず、平然と踏みつけて橋を渡ります。その夜、龍神の使いで、大蛇に化けていたという美女が訪ね、大ムカデ退治を依頼します。大ムカデは龍神の宿敵です。
秀郷は5人張りの弓、15束3伏の矢を抱えて近江・三上山に向かいます。5人張りの弓は5人がかりで張る強い弓、15束3伏の矢とは、拳一握りの幅が1束、指の幅が1伏で、標準の12束よりもかなり長い1メートル超の矢です。
大ムカデは三上山を7巻半するというとてつもない大きさですが、秀郷は見事大ムカデを射抜いて倒し、刻んでバラバラにします。秀郷には龍神の使いの美女からムカデ退治の礼として巻絹、俵、赤銅の鍋が贈られました。

ほぼ同じ話が『太平記』にもあります。南北朝時代を書く『太平記』は秀郷の時代には全く関係ないのですが、三井寺(園城寺)の鐘の説明として、唐突に秀郷のムカデ退治伝説が出てくるのです。


藤原秀郷と俵藤太は別人?

これらの物語の中で藤原秀郷は「田原藤太秀郷」と呼ばれます。
田原の里の住人としての通称で、大ムカデ退治の礼として龍神から贈られた俵はいくら米を取り出しても尽きることはなく、「俵藤太」とも呼ばれるようになります。しかし、秀郷の本拠地だった下野南部に「田原の里」はありません。もう少し北にいき、現在の宇都宮市北部に田原の地名はありますが、秀郷の伝承はなく、該当地とは言えません。「田原の里」は藤原秀郷ではなく、俵藤太(田原藤太)の本拠地なのです。

田原の里は京都府宇治田原町や近江・田原郷とする説があります。織田信長や豊臣秀吉のもとで出世した戦国大名・蒲生氏郷を輩出する蒲生氏ら京周辺で活躍した一族と大いに関係がありそうです。蒲生氏は秀郷の子孫であることを誇った一族です。そうした一族が先祖の功績を飾り立て、生まれた伝説なのです。物語の中での俵藤太(田原藤太)は、京の武者で、恩賞を得て下野に向かうのです。この点も実像の秀郷とは違います。

では、藤原秀郷と俵藤太は別人かというと、やはり同一人物です。俵藤太(田原藤太)は藤原秀郷の通称であり、平将門討伐の史実も重なっています。同一人物ではありますが、実在した武将・藤原秀郷とフィクションの主人公・俵藤太といった関係なのです。


宇都宮の百目鬼伝説

藤原秀郷には大ムカデ以外にも化け物退治の伝説があるのがすごいところです。栃木県宇都宮市には、百目鬼(どうめき)退治の民話があります。


百目鬼(出典:坂東武士図鑑より)
百目鬼のイメージ(出典:坂東武士図鑑より

百目鬼は百の目を持ち、死んだ馬を食うという3メートル以上の巨体を持つ鬼。宇都宮に来ていた秀郷は老人から退治を依頼され、見事射抜いて倒します。鬼の巨体は炎と毒気を噴き出し、秀郷は近寄ることもできず、翌朝見に行くと鬼の姿はありませんでした。
現在の栃木県庁近くに残る伝説です。地名にもなって、百目鬼通りという路地があります。


おわりに

藤原秀郷は武士が登場した時代に活躍した最初の武士です。それまでの貴族の武人が朝廷の軍隊を率いていたのとは違い、自身の武力を持っていました。これは平将門も同様ですが、独自の武力で朝廷の命令を受けて反乱勢力を制圧した秀郷は、自身の武力で朝廷や貴族に仕えていく武士のスタイルの先駆けだったのです。

そして秀郷は源平合戦や戦国時代に活躍する数多くの有名武将の先祖でもあります。秀郷に注目すると、武士の始まりが具体的に見えてくるはずです。



【主な参考文献】
  • 『坂東市本将門記』(坂東市立資料館)
  • 野口実『伝説の将軍 藤原秀郷』(吉川弘文館)
  • 田嶋一夫ほか校注『新日本古典文学大系55室町物語集下』(岩波書店)
  • 下野民話の会編『うつのみやの伝説』(随想舎)
  • 栃木県史編さん委員会編『栃木県史』(栃木県)
  • 『藤原秀郷 源平と並ぶ名門武士団の成立』(栃木県立博物館企画展図録)

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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