「運慶」仏像の新しい様式を生み出した稀代の仏師
- 2022/06/27
平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した運慶(うんけい)は、日本史上最も有名な仏師のひとりです。仏師の家に生まれた運慶は、仏像製作の伝統や技術をしっかりと受け継ぎつつも、時代に合わせた新たな作風を確立し、多くの人々がその造形を評価しています。彼が手掛けたことで有名な東大寺南大門の金剛力士(仁王)像は、鎌倉彫刻の代表作とされ、運慶の名と共に教科書にも載るほどです。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも、相島一之さんによる特徴的な立ち振る舞いが注目されました。そんな運慶がどのような生涯を送ったのか、詳しく見ていきましょう。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも、相島一之さんによる特徴的な立ち振る舞いが注目されました。そんな運慶がどのような生涯を送ったのか、詳しく見ていきましょう。
出生と青年期
仏師の家に誕生
運慶の生い立ちは定かではありませんが、12世紀中頃の生まれだと考えられています。運慶の父である康慶(こうけい)は、奈良仏師・康助(こうじょ)の弟子で、運慶が生まれる前から仏像造りに勤しみ、京都にまでその活動の幅を広げていました。彼は治承元(1177)年には法橋(ほっきょう)という高い位を得ており、都でも一流の仏師として認められてたようです。当時の仏師とは
そもそも当時の仏師とはどのような人たちだったのでしょうか。まず、彼らは仏像彫刻を専門に製作する手工業者、つまり職人でした。有力な仏師であれば、大規模な工房を構えて複数の職人を従えて活動し、天皇や摂関家など権力者からの依頼を通じてその関係を深める集団もいました。
また、名前からも想像できるように彼らは僧侶でもありました。権力者との関係が深い仏師は、僧侶として高い位を得ることもできたのです。事実、康慶は法橋に、運慶自身は後に僧侶としての最高位である法印(ほういん)に叙されています。もちろん彼らに相応の実力と実績があるのは間違いありませんが、依頼を通じて権力中枢との繋がりもあったようです。
運慶が生きた時代
運慶が生まれた当時は、平清盛や源義朝などの武士が台頭し、京でも争乱が相次いでいました(保元の乱、平治の乱)。運慶の幼年期はちょうど平氏の権力が増し始めた時期に重なりますし、運慶が仏師デビューを飾るころは平氏政権の絶頂期です。王権が揺らぎ、政治的な混乱が相次ぐ激動の時代を、若き日の運慶は目の当たりにしていたのです。戦災による悲惨な現場に遭遇したこともあったでしょう。そうした時代背景も、運慶の創作活動に影響を与えたのかもしれません。仏師・運慶
運慶のデビュー
運慶の初期の作品としては、安元2(1176)年完成の奈良・円成寺の大日如来像が知られ、これが運慶のデビュー作だと考えられています。彼はこの像の製作に1年近くを費やし、ほぼ1人で完成させました。また、この像の台座裏には運慶の銘文があり、本人の花押(サイン)も添えられています。これは仏師自らが署名した銘文として初の事例です。若い運慶は、自らが大仏師・康慶を継ぐ者であると、アピールしたかったのかもしれません。以降、運慶は父と共に様々な事業に参加し、数多くの作品を生み出すことになります。
運慶願経を完成させる
前述の通り、当時の仏師は職人と僧侶、両方の顔を持っていました。運慶は職人として上記の大日如来像を製作する傍ら、大規模な法華経の写経事業に取り組みます。入念な準備の末に行われたこの写経は「運慶願経」として知られ、発願から7、8年を経た寿永2(1183)年にようやく完成しています。写経用の用紙をきちんと整え、写経中の作法も徹底して行われており、運慶はこの写経事業にかなり本気で取り組んでいたようです。
興福寺・東大寺再建事業への参加
治承4(1180)年、平家の焼き討ちにより奈良の東大寺・興福寺が大きな被害を受けます(南都焼討)。多くの人が死に、建物と仏像が悉く焼け落ちた有様を重く見た朝廷は、直ちに復興事業を開始します。長きにわたる復興事業では、多くの仏師が動員されました。康慶をトップとする慶派(けいは)の仏師もこれに参加し、運慶もその中で数多くの仏像製作に携わりました。国家を挙げての一大事業への参加は、運慶らにとって自らの評判を広める機会でもあったのです。
活動の幅を広げる運慶
鎌倉武士からの依頼
治承・寿永の内乱(源平合戦)の終結後、運慶のもとへは東国武士からの依頼も届くようになりました。文治2(1186)年には、北条時政発願の願成就院で、次いで和田義盛発願の浄楽寺で仏像製作を担当しました。上述の通り、運慶は国家事業でも仏像製作に多数携わっていたので、その評判は時政や義盛も聞き及んでいたのかもしれません。運慶といえば量感に富んだ力強い作風で有名ですが、そうした風潮がみられはじめるのは、実はこのころからです。東国武士の好みもあるでしょうが、運慶側も自分の新たな作風を模索していたと考えられています。後に運慶が確立する作風は、クライアント(武士)の趣向への傾倒ではなく、製作サイドによる新しいデザインへの挑戦だったのかもしれません。
大盛況の慶派工房
当時、ある程度の規模の仏師集団においては、親、兄弟は独立した工房を構えていました。運慶の属する慶派も同様で、トップこそ父の康慶でしたが、運慶も自分の工房をもち、多数の弟子を抱えていたようです。あちこちから舞い込む依頼は工房ごとに振り分けられ、工房ごと、仏師ごとに様々な作業を同時進行していたのです。運慶自身も、総責任者だったり一作業員だったりと、依頼ごとに様々な立場で対応しています。すでに名のある仏師だった運慶も、かなりフレキシブルに仕事をしていたようです。
先述の東大寺・興福寺再建事業の仕事も増え、運慶ら慶派の仏師も多く動員されることになります。特に東大寺南大門の金剛力士像製作には、慶派の有力仏師が多数参加しており、慶派工房を挙げての一大事業だったようです。工房全体が忙しくなるなか、康慶の死去に伴い、慶派仏師工房の棟梁の地位は運慶へ引き継がれます。
晩年の運慶は?
その後も各所で仏像製作に携わり続けた運慶ですが、晩年は鎌倉幕府関係者からの依頼に集中することになります。建保4(1216)年から承久元(1219)年にかけて、源実朝や北条政子、義時から次々と依頼を受けて、様々な仏像を製作しました。
幕府中枢に近い人々との繋がりが目立ちますが、工房として幕府専門になったわけではありません。朝廷からの依頼は嫡男の湛慶(たんけい)がこなしていたので、親子で分担して舞い込む依頼に対応していたようです。
最後とその名声
運慶の最後を示す同時代史料はありませんが、室町時代の記録では貞応2(1223)年12月11日とされています。これが事実であれば、運慶の享年は70を超えていた可能性が高く、当時としては大変な長生きです。運慶には嫡男の湛慶をはじめ6人の子息がおり、彼らはみな仏師として運慶の子に相応しい活躍を見せました。末裔たちの活躍もあり、運慶の名声は現代まで伝えられ、その造形は未だに多くの人を虜にしています。
【主な参考文献】
- 根立研介『運慶 天下復タ彫刻ナシ』(ミネルヴァ書房、2009年)
- 東京国立博物館ほか編『興福寺中金堂再建記念特別展 運慶』(朝日新聞社、2017年)
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