「河井継之助」司馬遼太郎の『峠』の主人公!北越戦争を戦い抜いた幕末の長岡藩家老
- 2023/09/05
幕末の長岡藩にあって藩政改革を実現。見事に近代化に導き、幕末の動乱に華々しくその姿を誇示させた人物がいます。長岡藩の家老となった河井継之助(かわい つぎのすけ)です。
継之助は若い頃より藩政改革を志向。江戸に遊学して学問を修めると同時に、より実学的な思考を深めていきました。しかし剛直な継之助は周囲と度々衝突を繰り返します。黒船来航後、外様吟味薬(とざまぎんみやく)を拝命して藩政改革に乗り出しますが、門閥の対応に反発して辞任。江戸藩邸留守居役となるも、藩主の一族に罵声を浴びせて役目を解かれてしまいます。
そんな状況でも、継之助は藩主から大きな期待と庇護を受けていました。やがて国許で藩政改革を成功させると、長岡藩の内部構成は激変し、近代化へと大きな歩みを始めていくのです。
戊辰戦争が勃発すると、継之助は家老として長岡藩を指揮。中立姿勢を堅持しつつも、旧幕府を擁護していました。長岡藩は北越戦争において新政府軍と衝突し、最新鋭のガトリング砲を駆使して薩長の兵を苦しめました。しかし戦争の行方は、継之助と長岡藩に思わぬ結末をもたらします。
継之助は何を目指し、何と戦い、どう生きたのでしょうか。河井継之助の生涯を見ていきましょう。
継之助は若い頃より藩政改革を志向。江戸に遊学して学問を修めると同時に、より実学的な思考を深めていきました。しかし剛直な継之助は周囲と度々衝突を繰り返します。黒船来航後、外様吟味薬(とざまぎんみやく)を拝命して藩政改革に乗り出しますが、門閥の対応に反発して辞任。江戸藩邸留守居役となるも、藩主の一族に罵声を浴びせて役目を解かれてしまいます。
そんな状況でも、継之助は藩主から大きな期待と庇護を受けていました。やがて国許で藩政改革を成功させると、長岡藩の内部構成は激変し、近代化へと大きな歩みを始めていくのです。
戊辰戦争が勃発すると、継之助は家老として長岡藩を指揮。中立姿勢を堅持しつつも、旧幕府を擁護していました。長岡藩は北越戦争において新政府軍と衝突し、最新鋭のガトリング砲を駆使して薩長の兵を苦しめました。しかし戦争の行方は、継之助と長岡藩に思わぬ結末をもたらします。
継之助は何を目指し、何と戦い、どう生きたのでしょうか。河井継之助の生涯を見ていきましょう。
幼少~青年期の継之助
文政10年(1827)、河井継之助は越後国(現在の新潟県)にある長岡城下の長町で、河井代右衛門秋紀の長男として生を受けました。母は貞です。継之助の幼少期は負けん気が強く、気性の激しい子供でした。元服前に学んだ剣術や馬術において、師匠にさえ従わず、我流で通したと伝わります。しかし藩校・崇徳館で儒学に出会い、熱心に学び始めます。特に陽明学に惹かれていたようです。
元服は天保13年(1842)で、諱を秋義(あきよし)としましたが、以降も継之助を名乗っています。河井家の当主は代々「代右衛門」を世襲してきました。ここから、継之助は古い習慣に囚われることを嫌っていたことがわかります。
嘉永3年(1850)には側用人・梛野嘉兵衛の妹・すが と結婚。家庭を持つと同時に藩政進出の足がかりを掴んでいました。継之助は同輩の小山良運らと「桶党」と称されるほどの一派を形成。早くから藩政改革のために意見を戦わせていきます。
初めての江戸遊学と建言書の提出
問題意識を持つ継之助は、より自己研鑽を積むべくさらなる行動に出ます。嘉永5年(1852)に江戸遊学に出立。朱子学者・斉藤拙堂や砲術家・佐久間象山のもとで学びます。さらに翌嘉永6年(1853)には古賀茶渓のもとで儒学を学び、『李忠定公集』の精読と写本を行なっています。また、同年には浦賀沖にペリー率いる黒船艦隊が来航し、幕府に開国を求めるという事件が起きていました。10代長岡藩主・牧野忠雅(まきの ただまさ)は江戸幕府老中の職にあったので、長岡藩も決して無関係ではいられません。継之助は藩政改革のための建言書を提出し、藩の首脳部に意見を言うことができる役「御目付格評定方随役(おんめつけ かくひょうじょうかた ずいやく)」を拝命して帰国しています。
しかし国許では、継之助の人事に不満を持つ家老らが反発したことで、継之助は激怒。わずか2ヶ月ほどで辞職してしまいます。そうした中でも忠雅は安政2年(1855)に嫡男の忠恭(ただゆき。のちの11代長岡藩主)の経史の講義役を継之助に任せるなど、その才能を評価していました。しかし継之助はこの命令を拒否し、藩から注意されています。
この頃の継之助はまだ家を継いでおらず、役にも付いていません。先の見えない中で、銃の射撃訓練を実施して新しい戦争の方法を肌で体感しました。また、同志である三島億二郎らと越後から東北地方を視察しています。このときは見聞を広めると同時に、海防調査の意図もあったようです。
そして安政4年(1857)には河井家の家督を相続。同年に「外様吟味役(とざまぎんみやく)」を拝命した継之助は、ついに藩政に関わることになるのです。
京都詰・江戸詰に任命
藩政改革だけでなく、急転する時代への対応を模索していた継之助は、安政6年(1859)に江戸に再び遊学。古賀の塾で学び直します。しかしそれで飽き足りない継之助は、備中松山藩の財政担当・山田方谷を訪ねました。方谷は農民出身ながら藩政改革を見事に成功させ、高名な儒学者でもありました。継之助は方谷に師事する一方で長崎や佐賀など九州各地も遊歴し、翌安政7年(1860)には江戸に戻っています。
文久2年(1862)、11代長岡藩主・牧野忠恭(ただゆき)は京都所司代を拝命。尊攘派が跋扈する京都の治安を守る役職でした。このとき、継之助も藩主を支える立場である京都詰を拝命しており、翌文久3年(1863)正月には上洛しています。
しかし継之助は藩主の京都所司代就任には反対でした。というのも、尊王攘夷派から恨みを買う立場というだけでなく、藩費を費やすだけで、藩政改革も大きく遅れてしまうからです。
こうして継之助は京都所司代辞職を藩主の牧野忠恭に上申します。忠恭は首を縦には振らずに京都にとどまりましたが、同年の4月に将軍・徳川家茂が攘夷実行を約束。結局、忠恭は辞職する道を選んで江戸に戻っています。
しかし、幕府は長岡藩の離脱をそのままにはしておきません。同年9月には、忠恭は老中に再任され、継之助も公用人(江戸藩邸留守居役。外交も担当)に取り立てられます。
ここでも継之助は忠恭に老中の辞任を進言します。しかし、牧野家の分家筋である笠間藩主・牧野貞明が説得に訪れたため、継之助は激昂して貞明を罵倒してしまい、公用人の立場を辞任することとなってしまうのです。
長岡藩の藩政改革に取り組む
公用人を辞し、長岡藩に帰国した継之助は、再び藩政改革に身を投じることとなります。慶応元年(1865)、継之助は「外様吟味役」に再任すると、程なくして郡奉行にも就任し、長岡藩の藩政改革に本腰を入れることとなります。そこで藩政改革に三本の柱を打ち立てます。
家禄改革
100石以下は一律で加増。100石以上は石高減を命令します。門閥の平均化を目的としていました。例として、家老首座の稲垣平助家は2000石か500石に減封。対して次席家老の家出身である山本帯刀は協力しています。兵制改革
上級家臣団の陪臣と軍役を削減。指揮権限を藩主か軍事総督に集中させています。家老連綿五家や先法御三家の力は大きく削減され、逆に長岡藩の財政を助けていました。藩学改革
藩の学問を朱子学に一本化。藩校・崇徳館で古義学を教えることを廃止しています。朱子学の教授である高野松陰は、陽明学も教授していました。実際には朱子学と陽明学を重視した政策のようです。上述のように、継之助は幕府に先駆けて長岡藩の中央集権化を実施していました。そこからは近代化することで時代に取り残されまいとする意思が垣間見えます。
幕府終焉と戊辰戦争の始まり
継之助は藩政改革で成果を出すとともに、政治的足場を固めていきます。慶応2年(1866)、継之助は町奉行を兼任。綱紀粛正に努め、農政改革にも努めていました。しかし時代の荒波は、やがて長岡に押し寄せることとなります。同年、徳川幕府が15万という大軍を動員して第二次長州征伐を実行、長州藩に攻撃を仕掛けます。ところが方々で幕府軍は撃破されてしまいます。さらに戦中には大坂城で14代将軍・徳川家茂が病死してしまいました。
程なくして15代将軍に徳川慶喜が就任。幕府の権威回復と幕政改革に努めますが、時勢は討幕に傾いていました。慶応3年(1867)10月には慶喜が大政奉還を実行。薩長の暗躍で王政復古の大号令が出されると、にわかに緊張が高まります。
継之助は公武周旋の活動のため、新藩主となっていた牧野忠訓とともに上洛。薩長新政府の議定所に出頭すると、旧幕府の中枢である徳川家を擁護する建言書を提出しています。薩長新政府は反応せず、継之助らは大坂に下りました。
年が明けて慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見で旧幕府と新政府の間で戦闘が開始されます。旧幕府軍が苦戦する中、新政府は錦の御旗を掲げました。賊軍とされた旧幕府軍は崩壊し、慶喜は江戸に逃走。そして継之助は江戸藩邸に戻り、さらなる事態への対処に向かっていくことになります。長岡藩の行方を左右する立場となった継之助が最初に行ったのが、資金調達と軍備増強でした。
江戸藩邸の家宝類を売却した金で兵糧米を購入。箱館に運んで売り抜けて利益を出しています。加えて新潟と箱館の為替差益を利用して蓄財していました。
軍備増強においては、プロイセン商人スネル兄弟らからガトリング砲やアームストロング砲、及び新式の元込銃であるエンフィールド銃などを購入。短期間で日本屈指の最新鋭兵器を揃えます。当時の日本にガトリング砲はわずか3門しか存在していません。そのうち2門を長岡藩が所有していました。やがて継之助は国許の長岡に帰国します。守旧派は新政府への恭順を唱えますが、あくまで中立を志向していました。
北越戦争と最期
慶応4年(1868)には小千谷で土佐藩の岩村精一郎と会談。旧幕府との仲介を試みます。ここで継之助は新政府を舌鋒鋭く批判し、長岡藩による旧幕府方への攻撃を拒絶し、奥羽越列藩同盟加盟に踏み切ります。これに激怒した新政府軍は長岡城への攻撃を開始。同地を舞台とした北越戦争が始まりました。継之助は長岡藩兵を指揮して新政府軍と対決。ガトリング砲などを使って互角に渡り合います。一時は長岡城を奪われたものの奪還。その最中に領内で世直し一揆が勃発すると、さらに苦戦を強いられます。継之助自身も左膝を狙撃されて負傷。指揮不能となったこともあり、長岡城は再び陥落してしまいました。
継之助は旧幕府方の会津に落ち延びていきました。しかし受けた傷は重く、破傷風を発症していました。程なくして継之助は只見村で死去。享年四十二。戒名は忠良院殿賢道義了居士。墓所は長岡の栄涼寺にあります。
【参考文献】
- 長岡観光ナビHP「最後の侍河井継之助の叶わぬ夢」
- 越後長岡河井継之助記念館 HP
- 国際子ども図書館HP「河井継之助」
- 安藤英男 『河井継之助の生涯』 新人物往来社 1987年
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