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平安貴族の出産はありえないほど大掛かりだった?

はじめに

 少子化が進む現代の日本においては、生まれてくる赤子の存在はより尊いイメージを持たれるようになっていますね。

 しかし、平安時代では全く逆のイメージがもたれていたといいます。出産を補助する施設や技術が発達していなかった平安時代では、子を出産することよりも出産時・後の儀式に大掛かりな準備を必要としていました。

 今回は平安時代の大掛かりな出産について簡単に見ていこうと思います。

出産は不浄だった

 現代では、出産は新しい生命の誕生を意味していることから「尊い」というイメージをもつことが一般的です。

 しかし、平安時代では全く異なりました。出産は「穢れ」だと考えられていたのです。そのため、皇后でさえも宮中で出産することは許されませんでした。

 また、出産を行う部屋の壁や几帳は全て白く塗られ、産婦や侍女も白衣を纏うことが一般的でした。なぜ「白」だったのかといえば、「白」には「穢れ」と対照的に清純なイメージがあったからといえるでしょう。

 加えて、当時は現在のような出産補助の技術がありませんでしたので、出産時に産婦が亡くなったり、産子が亡くなったりするケースが大変多くあったといいます。

 そのため、出産時には僧による祈祷が行われ、別の部屋では邪霊を肩代わりするための幼児が用意されたという説もあるそうです。

誕生後の儀式はたくさんあった

 無事出産を終えると、次に待っているのは「御湯殿の儀」です。これは皇子の誕生の際に産湯を浴びさせる儀式です。平安時代では、この儀式を吉日の朝と夕の2回、7日間も繰り返していたのです。

 また、「鳴弦」と呼ばれる弓の弦を鳴らす行為で悪霊や邪気を祓ったり、祝いの文章を読む読書や乳母による最初の「乳つけ」などが行われたりしました。

 これほどまでに産子は「穢れ」の対象として見られていたということがわかりますね。その穢れを祓おうと必死だった様子が見て取れます。

 他にも親族や知人などが衣服・調度・食物などが贈られる「産養」など多くの祝いの儀が通過儀礼として用意されています。

おわりに

 ここまで見てきたとおり、平安時代の出産には今では考えられないような儀式の準備が必要だったようですね。

 それらの理由としては産子に対する「穢れ」意識があったといえます。

 諸説ありますが、生命の誕生と死の瞬間は穢れの発生が伴う時間だとされていたために、このような対応がなされていたといいます。

【参考文献】
片岡耕平「日本中世の穢観念とオヤコ関係」、2015年3月31日
井出真綾「古代日本における穢れ観念の形成」、2016年
メイン・補足画像:京都府下京区風俗博物館

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  この記事を書いた人
一茶 さん

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