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北海道の木彫りの熊と尾張徳川家との意外な関係

北海道のお土産として有名な「木彫りの熊」。ひと昔前、昭和のご家庭ではブラウン管テレビの上に置かれていたものです。

そんな木彫りの熊の歴史をひもとくと、尾張徳川家との意外なつながりがありました。

尾張の殿様がはじめた北海道開拓

北海道に八雲町という町があります。ここはもともと、明治維新後に職にあぶれた旧藩士たちを入植させたことで発展しました。

この開拓地を、古事記の和歌「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」から引用し「八雲」と名付けたのが17代目尾張藩主・徳川慶勝でした。

歴史的にはマイナーな徳川慶勝ですが、会津戦争で旧幕側として最後まで戦った悲劇の藩主・松平容保の兄といえばわかりやすいかと思います。

慶勝、容保を含め、幕末に活躍した尾張藩の支藩・高須家の兄弟を称して「高須四兄弟」と呼び習わすほど、歴史ファンには有名な兄弟です。

また慶勝は朝廷側、容保は旧幕側と、兄弟で敵同士となったことも、歴史ファンの琴線をくすぐります。

その慶勝ですが、とても優秀な人だったので領民からも尾張藩主にと望まれていました。(なにせ、これまではあの子沢山将軍、家斉の子供を押し付けられていたので…)
藩主就任後はその人望と才知を生かして、財政を立て直したり、烏合の衆(うごうのしゅう)だった朝廷派をまとめたりと、いろいろと活躍をしていました。

そして明治。職にあぶれた旧藩士たちを入植させたのが現在の八雲町で、慶勝は彼らの生活が立ち行くようにと支援を続け、生涯気にかけていたそうです。

殿様のアイデアで生まれた木彫りの熊

明治以後も八雲の人々と尾張徳川家の交流は続きました。

19代当主の徳川義親。この方は幕末に活躍した松平春嶽の息子です。華族というと、世間知らずで変な投資にハマって財産をなくす人もいたそうですが、義親氏は経済にも明るく、学問にも優れた植物学者でもありました。

また、北海道で熊を狩り、マレーシアでは虎を狩りに行くという、とてもたくましい文武両道の「お殿様」だったようです。

そんな「熊狩りの殿様」が、1921年から翌年にかけての洋行中に、スイスの土産物屋で見た木彫りの熊を「農民の冬場の現金収入に」と、持ち帰って住民に薦めたことで始まったそうです。

1924年には「農村美術」を集めた品評会が開催され、北海道第1号の木彫り熊が登場。そこから徐々に北海道みやげとして広がっていったそうです。

木彫りの熊は、今ではいろいろなデザインが作られています。シャケをくわえるのではなく、逆に「シャケにくわえられた熊」や、鮮やかな色彩でペインティングされた熊など、個性的に進化を遂げているのでした。

そして、そのルーツをたどると、幕末につながっていたのです。

※参考HP、書籍
・『冬の派閥』
・木彫り熊の発祥地では、鮭をくわえていない
http://kai-hokkaido.com/town_vol33_woodenfigure/

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  この記事を書いた人
日月 さん
古代も戦国も幕末も好きですが、興味深いのは明治以降の歴史です。 現代と違った価値観があるところが面白いです。 女性にまつわる歴史についても興味があります。歴史の影に女あり、ですから。

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