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聖徳太子暗殺の実行犯は妃の1人?

聖徳太子はどのようにして亡くなったのでしょうか?現在の定説では疫病が原因になっていますが、暗殺説も根強く残っています。

太子の死因が暗殺だった場合、太子を殺害したのは誰なのでしょう。更には、暗殺をしなくてはならないような背景はどうなっていたのでしょうか。今回は、その犯人像の解明をしていきます。

定説では病死だが

聖徳太子は、皇太子という立場で推古天皇を補佐していました。622年、当時流行したとされる天然痘に感染し、妃の一人である膳部菩岐々美郎女(かしわで の ほききみのいらつめ)が亡くなった翌日に、聖徳太子も旅立ってしまったのです。

しかし、この定説に対しては、妻と一日違いで亡くなるというのは少々不自然なのと、天然痘で太子夫妻が亡くなったというのに、市中で天然痘が流行った記録も庶民に死者が出たという記録も残っていません。そのようなことが重なって、太子の暗殺説が浮上してくるのです。

目的は権力奪取

初の女性天皇とでもある推古天皇は、信頼する聖徳太子と大臣を務める蘇我馬子の協力を得て、政治改革を推進していました。しかし蘇我馬子は、この体制を快く思っていなかったとも言われています。それは、聖徳太子が台頭するまでの蘇我馬子は、常に政治の中心にいて権力を思いのままに操っていたからです。

このままでは、聖徳太子がますます力を付けていき、蘇我氏一族の力が弱まると思ったかもしれませんね。そういう面では、太子を暗殺して、以前のような権力を牛耳れる体制にしようとしても不思議ではありません。実際のところ、太子が亡くなった後、実権を握った蘇我馬子が、天皇中心の政治から蘇我氏中心に切り替わっています。

しかし、蘇我馬子の太子犯人説には、状況証拠は揃っていても、しっくりいかないこともあり、まだまだ捜査の必要がありそうです。

4人の妃

疫病のように見せかけて暗殺するというのは、毒殺しかありません。弱い毒をもって病気のようにさせ、最後はとどめの一服で絶命させる。こんなことができるのは、常に身の回りにいる身内しかいません。ということは、当時4人いた妃が容疑者として上がってきますね。ということで、4人の妃を調べてみましょう。

第一婦人なのが、菟道貝蛸(うじのかいたこ)皇女です。敏達天皇と推古天皇の長女となります。身分が高い皇女で正妻として聖徳太子に嫁いでいます。ただ悲しいことに、子どもがひとりもできませんでした。

第二婦人は、蘇我刀自古郎女(そがのとじこのいらつめ)です。蘇我馬子の娘にあたり、母は物部氏の女性となっていて、兄が蘇我蝦夷となります。太子との間にできた長子が山背大兄皇子で、皇位継承者の一人ですね。

第三夫人は、膳部菩岐々美郎女(かしわで の ほききみのいらつめ)です。聖徳太子の一番愛した女性とされ、4人の奥さんの中では最も身分が低くなります。しかしこの妃は、容疑者ではありません。なぜなら、太子の看病しながら、自分自身も病(毒を飲まされ)に倒れ、太子が亡くなる前日に息を引き取ります。

最後の第四婦人が、橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)です。推古天皇の孫にあたる人物ですね。太子からすれば叔母の孫、推古天皇の長女に子供ができなかったので孫娘を妃に送り、なんとしても自分の血を継承する皇位継承者を作りたかったのでしょう。国宝の「天寿国繍帳」は日本最古の刺繍です。太子死後、橘大郎女が叔母の推古天皇に頼み、太子が行かれる天国の様子を刺繍にしたいと申し出て作られたものなんですよ。このことで、後世に聖徳太子の妻として大きな印象を残したといえるでしょう。

暗殺の実行犯は誰だ

聖徳太子は毒殺された。この殺害を実行するのは身内の人間じゃないとできません。太子に最も接近できるのは、4人の妃でしょう。今でも語り継がれる太子の暗殺説。誰が太子に毒を持ったのでしょうか。妃の1人は、太子と同じように毒殺されていますので、重要参考人は3人の夫人の誰かということになります。

1400年も前に起こった事件。物証を見つけるのは、かなり無理がありますが、動機の面から考えると、特定の人にたどり着けます。その人は、第二婦人の蘇我刀自古郎女。そう、蘇我馬子の娘ですね。

聖徳太子の後継者となる山背大兄王を含む、4人の子どもを産んだ女性です。それなのに夫の心は第三夫人の膳部菩岐々美郎女に向いていました。

太子の継承者を息子に持った上に、身分も膳部菩岐々美郎女より遥かに高いのに、後から来た若い娘に夫を奪われてしまったのです。今を時めく権力者、蘇我馬子を父に持つ蘇我刀自古郎女にとって、かなりプライドが傷ついたことでしょう。

しかし嫉妬心からの殺害なら、膳部菩岐々美郎女だけを殺せばことは足ります。ましてや、太子の殺害が公になれば、息子である山背大兄王を天皇にすることもできなくなるのです。

では何故、蘇我刀自古郎女は二人を殺害したのか。それは、聖徳太子を亡き者にしたい誰かが、蘇我刀自古郎女を実行犯に利用したのでしょう。太子亡き後でも、山背大兄王を天皇にできるほどの実力者だったに違いありません。膳部菩岐々美郎女までもを殺したのは、蘇我刀自古郎女の嫉妬からで、まずはにっくき女を殺害して続いて太子という順番にも納得できます。しかし、暗殺を指示した人物にとって、夫人を殺害にはさぞかし驚いたのではないでしょうか。

実行犯を操る影

蘇我刀自古郎女を手先にしたのは誰だったのでしょうか。元の権力を取り戻したい父蘇我馬子だったのでしょうか。しかし蘇我馬子の時代、仏教を使って日本をまとめるのに、聖徳太子はまだまだ必要な人物で、暗殺するには早すぎます。親子での暗殺は、バレた時のリスクが大きすぎますね。

この頃、虎視眈々と曽我氏の権力を奪い取ろうとしていた一族がいました。推古天野が崩御する前から、皇極天皇~舒明天皇の系統に皇位を移そうと画策していたのが中臣氏です。

中臣御食子の息子である中臣鎌足は、中大兄皇子(後の天智天皇)と繋がることにも成功。太子の暗殺及び太子一族を殲滅した曽我氏を悪役に仕立て、大化の改新の際の大義名分を手に入れたのです。その後藤原氏となり、天智天皇の後ろ盾として活躍、見事に曽我氏に代わって政治の実権を握ったのでした。

果たして、実行犯に決定した蘇我刀自古郎女を操って殺人の教唆に問われるのは、権力欲に狂った、父蘇我馬子なのでしょうか。それとも、巧みに人を操る中臣御食子・鎌足親子なのでしょうか。

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  この記事を書いた人
五百井飛鳥 さん
聖徳太子に縁のある一族の末裔とか。ベトナムのホーチミンに移住して早十数年。現在、愛犬コロンと二人ぼっちライフをエンジョイ中。本業だった建築設計から離れ、現在ライター&ガイド業でなんとか生活中。20年ほど前に男性から女性に移行し、そして今は自分という性別で生きてます。ベトナムに来てから自律神経異常もき ...

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