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邪馬台国は結局どこにあったのか。近畿説と九州説について徹底比較してみたら…?

はじめに

300年以上前から議論を醸している「邪馬台国」の所在地問題ですが、論争の決め手となるのはやはり『魏志倭人伝』の記述です。『魏志倭人伝』には、邪馬台国までの道のりと日本にあった国々、慣習や外交などについて記されています。

同書には「邪馬台国」は女王「卑弥呼」が住む都であると言及されているため、同書の記述通りの道のりを行けば邪馬台国の位置が分かると思われていました。しかし、実際にその記述通りに進んでいくと、九州を遙かに超えた南方の海上に到着してしまうのです。

そこで、生まれたのが ①九州説と ②近畿説になります。

1.九州説と近畿説の違いは?

『魏志倭人伝』によると、実際はもっと細かいのですが、朝鮮から邪馬台国までの簡略的なルートは「帯方郡(朝鮮)→不弥国(日本)→投馬国(日本)→邪馬台国(日本)」とされています。

『魏志倭人伝』には、帯方郡から不弥国までの道のりが方位と里数で示されているのですが、それ以降は方位と日数で記されているのです。

具体的には、不弥国から投馬国まで南に「水行二十日」や投馬国から邪馬台国まで南に「水行十日、陸行一月」とあります。この記述が適切であるとすれば、ずっと南に進み続けることになります。また、船(水行)で10日進んだ後、さらに陸路で1ヶ月も行かなければならないというのも違和感を覚えます。

ここで、争点となったのが以下の3点です。

①「南」ではなく「東」では?
②「水行十日、または陸行一月」では?
③「水行十日、加えて陸行一日」の間違いでは?

上記の①を支持すると、邪馬台国は「近畿」にあることになり、②③を支持すれば「九州」が所在地であったことになります。

2.結局どちらが正しいのか

現在、両者の説を立証する根拠は数え切れないほど示されています。本稿ではそれらについて扱えきれませんので、この記事を読み終えた後に調べてみてください。

まず、前章の①「南」ではなく「東」では? について考えていきましょう。

当時の古書では方角を間違えているというのがよくあるので、確かに里数が書かれていないことも併せて「方角」「日数」ともに正確性には欠けると考えて良いと思います。

とすれば、東に「水行十日、陸行1月」も正しいのか怪しくなってきます。つまり、②と③も非常に不安定な記述だと言えてしまいます。

また、『魏志倭人伝』には他にも不思議な点があります。それは、同書には「夏」の記述しかないという点です。

仮に不弥国から邪馬台国に到着する日数くらいは正確に数えてあったとすれば、不弥国から邪馬台国までには最低でも船で「30日」はかかります。陸路説(または説)では合計「50日」、海陸説(加えて)では合計「60日」も日本に滞在していることになります。

日本に到着するまでにも数ヶ月はかかっているはずです。当時は無事に日本へ到着すること自体すら大変な時代ですから、ようやく日本に着いてそこから片道最低1ヶ月、最長2ヶ月もかかる目的地に向かうという道のりは果てしないものだったことでしょう。

日本国内には往復最低2ヶ月、最長4ヶ月もいるので、そこまでの道のりを考えても1週間そこらで帰国するということは到底ありえないといえます。元を取るという感覚で5~6ヶ月滞在していたとすれば、6月に到着したとしても11月までいたことになります。

しかし、『魏志倭人伝』には夏の描写しか残っていないのです。具体的には、草木が生い茂っていたことや潜水してアワビを捕っていたこと、衣服は単衣で全員裸足、楠木や楓などの植物が生息していたなどの記述です。

卑弥呼の時代は日本に「夏しかなかった」なんてことは自然科学的にありえません。3ヶ月以上滞在すれば、「春夏秋冬」のうち2つ以上の季節を過ごすことになります。つまり、朝鮮から渡ってきた人々は3ヶ月しか滞在していなかったということになるのです。

ですが、そんなことありえるでしょうか。筆者は単純に『魏志倭人伝』の記述が曖昧だったと考えます。何が曖昧かといえば、邪馬台国に到着するまでにかかる「日数」です。

常識的に考えると、それまで「里数」で記述されていたものが「日数」に変化するというのはおかしなことです。つまり、里数で書かなかった理由は「書けなかったから」といえるでしょう。

距離を測ることができなかったため、日数で記したと筆者は考えます。また、日数を数えるだけならば具体的な数字(11日・23日など)とできるはずなのに、記述されているのがキリのいい数字であるというのも不思議です。

このようなことから、筆者は『魏志倭人伝』の記述が曖昧であるため、「どちらも正しいとはいえない」と考えます。

おわりに

いかがだったでしょうか。もしかすると期待を裏切るような答えだったかもしれません。

しかし結局、ほとんどの説が『魏志倭人伝』の記述をどこかが誤っていると解釈するものであるため、客観的な証拠が発掘されてないかぎりはなんともいえないのが現状です。

ただ、最近ではそれぞれの説を立証するための研究などもなされており、調べて見る価値はあると思います。

例えば、卑弥呼が魏から貰ったとされている三角縁神獣鏡や巨大祭殿跡が近畿地方で発掘されたこと、後に生まれた大和政権(邪馬台国もやまと国と読める説がある)が近畿地方にあったことなどは近畿説や畿内説を推す根拠となっています。

また、佐賀県にある吉野ヶ里遺跡が『魏志倭人伝』の邪馬台国の描写と酷似していることや、当時の遺跡から武器の材料である鉄が畿内の100倍程度発掘されたこと、福岡県の三雲遺跡からその国の王とみられる男女の骨が発見され、それが卑弥呼の時代の女王・男王制と同じであることは九州説を推す根拠となっています。

ぜひ、皆さんも300年前から論争されている近畿説と九州説について調べて自分の意見を確立してみてください。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

【参考文献】
・吉田晶『卑弥呼の時代 (読みなおす日本史) 』、2020年
・『魏志倭人伝』

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  この記事を書いた人
一茶 さん

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