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江戸時代、「島流し」にあった罪人はどのような生活をしていたのか。

一茶
 2022/03/03

はじめに

日本の歴史で印象的な刑罰といえば「島流し」だと思います。

現代は存在しない刑罰でありながら、江戸時代には死刑の次に重い罰であったといいます。かつては天皇でさえも「島流し」にあった刑罰ですが、島流しにあった罪人はそこでどのような生活をしていたのでしょうか。

今回は流人の生活について見ていこうと思います。

1.「島流し」は終身刑の代わりだった?

徳川幕府法下で死刑の次に重いとされた「島流し」ですが、その名称は「流罪」や「遠島」ともいわれています。

島流しにあった罪人は「流人」とよばれ、離島で生活することを強いられました。しかし、「島流し」が適用されるのは離島のある藩に限り、離島のない藩は終身刑であったそうです。

また、流罪とされるのは武士や天皇のイメージが多いですが、商人や農民も含まれていたといいます。

3.流人の生活はしんどかった?

「島流し」のイメージとしては、重罪人だけが収容されている島に送られるというようなものが多いですが、実際はそうではありませんでした。

離島には罪を犯していない一般の住民も5~10%ほどいて、流人も島に慣れないはじめの頃は五人組に預けられたといいます。また、その後も生きていけないようであれば五人組の世話になっていたそうです。

流人は漁業者の手伝いなどをすることで金銭を得て、そのお金で島の人々と同様の生活をしていました。しかし、それらも流人の犯した罪によって変わります。

大罪を犯した流人は流人屋敷とよばれる軟禁施設に入れられ、厳しい監視下で生活していました。他者との面会や手紙などのやりとりなども幕府の許可無しでは禁止されており、流人に対する処遇も幕府の指示を仰いだといいます。

そのため、天皇家や幕府の重鎮などは罪人であっても丁寧な扱いがなされ、藩領内を自由に行動することや他者との交流も許可されていた場合がありました。

おわりに

このように見てみると「島流し」にあった罪人はただのサバイバル生活、良ければ普通の生活をしていたように思えます。

それはなぜかというと、「島流し」は死刑の次に重い刑罰ではあっても、極悪人に対して施行されるものではなかったからです。

簡単に列挙すると、「車で人を轢いて怪我をさせた者」や「人殺しに関与した者(幼年を含む)」、「インチキ賭博をした者」「寺持ち僧の女犯」などです。

人殺しに関与した者などは確かに極悪人ですが、島流しにあった罪人の犯した罪の重さは非常に多様だったことがわかります。

そのため、離島での生活が想像以上に楽なものだったかもしれませんが、全員が平等の待遇を受けていたわけではないので、車で人に怪我をさせた者と人を殺した者が同様の処遇であったとは考えにくいでしょう。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

【参考文献】
・山本清司「関東幕領に於ける遠島刑」、法政大学史学会、1961年
・京都大学歴史研究会「日本流刑史」

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  この記事を書いた人
一茶 さん

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