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『吾妻鏡』で読む大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(7)後白河法皇の院宣と文覚上人
- 2022/03/14
『鎌倉殿の13人』第3回「挙兵は慎重に」の続きです。
三善康信(演:小林隆)は、以仁王の令旨を受け取ったすべての源氏が追討されるという知らせを源頼朝(演:大泉洋)へ送りました。頼朝は、どうせ追討を受けるなら、先手を打って自分から挙兵することを決意します。『吾妻鏡』によれば、治承4年6月24日(1180年7月18日)のことでした。
しかしながら、頼朝の動員できる兵力はわずかです。挙兵を成功させるためには、坂東諸国の武士たちを味方に引き入れなければなりませんから、誰の目にも明らかな大義名分を掲げる必要があります。
頼朝はすでに以仁王の令旨を受け取っていますから、これだけでも大義名分にはなりそうです。実際、『吾妻鏡』の記述では、頼朝は令旨だけを旗印にして挙兵しています。しかしドラマ内で頼朝が「死人の命令など、誰が聞くものか!」と吐き捨てている通り、以仁王は謀反人として殺されましたから、旗印とするには不十分です。
『平家物語』でも、頼朝は令旨だけでは動くことができなかったと記されていますが、これはまた別の論理によるものです。巻五「福原院宣」にて、頼朝は以下のように発言しました。
「抑(そもそも)頼朝勅勘をゆりずしては、争(いかで)か謀反をばおこすべき」
「勅勘」(ちょっかん)とは、天皇から罰せられることです。「ゆりずしては」とは、「許されなければ」という意味です。頼朝は、平治の乱に敗れて伊豆へ流された、つまり天皇の名において処罰された罪人です。したがって、まずはこの罪を赦免してもらわなければ、挙兵するための大義名分は得られないということになります。確かに、以仁王の令旨は日本各地の源氏に対して広く下された命令書ですから、頼朝個人の罪を許すとはどこにも書かれていませんでした。
これを解決するために奔走したとされるのが、ドラマにも登場した僧侶・文覚上人(演:市川猿之助)です。『平家物語』によれば、文覚はもともと京の神護寺の住職でしたが、寄進を募るために後白河法皇の御所へ乱入した罪で投獄され、その後もたびたび平家政権への批判を繰り返したために、伊豆国へ流罪にされていました。
そこで文覚は、頼朝に接近して平家打倒の挙兵を勧めます。文覚は、ふところから白布に包んだ髑髏を取り出すと、これこそ平治の乱で討たれた頼朝の父・源義朝の遺骨だと称し、これを肌身離さず身につけて、義朝の菩提を弔っていたのだと語りました。すると頼朝は文覚に心を許しましたが、先に引用した台詞を言って、流罪の赦免がなければ挙兵の大義が立たないと打ち明けたのです。
なお、ドラマでも文覚は義朝の遺骨と称する髑髏を持ってきましたが、真っ赤な偽物であることがすぐにばれて、追い出されてしまっていました。いかにもコミカルな場面でしたが、義朝の遺骨が偽物だというのは、実は『平家物語』にも書かれています。文覚は頼朝に挙兵を決意させるために、その辺に打ち捨てられていた、いいかげんな髑髏を拾っておいたのです。平家滅亡後、文覚は改めて本物の義朝の遺骨を探し出し、頼朝に届けることとなります(巻十二「紺掻之沙汰」)。
話を戻します。『平家物語』によれば、頼朝の言葉を聞いた文覚は、弟子たちには「7日間、伊豆山権現に籠って修行する」と偽り、ひそかに後白河法皇のもとへ走りました。当時、後白河法皇の身柄は、平清盛の築いた新しい都・福原京に移されていました。文覚は福原京に潜入すると、法皇の側近に接触して、法皇から頼朝へ直々に平家討伐の命令を下すよう促しました。この、法皇の命令書のことを「院宣」(いんぜん)といいます。
文覚は3日で福原へ走り、1日で院宣を手に入れて、3日で伊豆に戻ってきました。こうして頼朝は、後白河法皇から直々の命令を受けたことになり、ついに挙兵に踏み切ることができた――これが『平家物語』のストーリーです。
まあ、いくらなんでも、伊豆から福原(現在の兵庫県神戸市)まで3日で走るのも無理なら、1日で院宣を出させるのも無理です。結局のところ、『吾妻鏡』に描かれているように、頼朝は以仁王の令旨だけを(不十分ながら)大義名分にして挙兵したのだ、と見る方が現実的でしょう。しかし、院宣をめぐる物語も、フィクションとしてばっさり捨て去ってしまうには惜しい題材です。
ドラマでは、そこのところをうまく処理しました。ちょうどその頃、京から伊豆へ帰国の途に就いていた三浦義澄(演:佐藤B作)が、後白河法皇(演:西田敏行)から院宣を託されて、頼朝に届けたという設定になっています。
確かに、『吾妻鏡』には、治承4年6月27日に三浦義澄が伊豆へ帰国し、頼朝のもとを訪ねたと書かれています(義澄のほかに、千葉常胤の子・胤頼も同行しているのですが、ドラマでは省かれています)。頼朝は、義澄・胤頼と数時間にわたって密談を交わし、その内容は他に誰も聞くことがありませんでした。この密談に、三谷幸喜氏は創作の可能性を見出したわけです。
こうして、ドラマでは、『平家物語』にある文覚の物語と、『吾妻鏡』にある三浦義澄と頼朝の密談という記事とを掛け合わせて、頼朝が後白河法皇の院宣を入手するというストーリーになりました。こうして新たな大義名分を得た頼朝は、ついに平家打倒ののろしを上げることとなるのです。
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