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実は名君だった、江戸時代の悪役たち

時代劇で悪役にされる歴史上の人物が、実は名君だった?
彼らは「お主も悪よのう…」とワイロを受け取ったり、庶民に圧政を敷いたりはしませんでした。
むしろその逆、善政を敷いて領民にとても慕われるお殿様でした。

今も領地で慕われる名君・柳沢吉保

柳沢吉保というと「犬将軍(徳川綱吉)の右腕」「綱吉とともに、生類憐れみの令などで民を苦しめた」などというイメージがつきまといますが、実はとても民に慕われた名君だったのです。

川越藩に赴任した際、荒れ野原だった土地を開拓して、領地の収入を充実させました。(このときのブレーンが学者の荻生徂徠です。)

また、ただ開拓を進めるだけではなく、開拓民のメンタルケアとして寺社(多聞院毘沙門堂)も建立しています。

そんな柳沢吉保は優秀であるがゆえに、他の領地経営をまかされるため、川越を離れることになりました。それを聞いた川越の領民は「行かないでください…!」と懇願したとか。

今でも川越では美術館で柳沢吉保関連の企画展が行われたり、開拓地・三芳町のお祭では吉保人形を載せた山車がつくられたり、と柳沢吉保を偲んでいます。

それだけ、慕われたお殿様だったのでしょうね。

実は浅野内匠頭の方が悪かった?地元では名君・吉良上野介

「忠臣蔵」の悪役、吉良上野介は浅野内匠頭に接待の指南を行う代わりに法外なワイロを要求し、潔白な内匠頭がワイロを拒むと、あの手この手で嫌がらせをした。

そのため、耐えきれなくなった内匠頭が松の廊下で刃傷に及んだ…というのが私たちがよく知る忠臣蔵の出来事です。

しかし、実際は吉良上野介へのワイロというのは「指導料」の意味合いがあり、当時は払うのが礼儀だったらしく、それをケチだった内匠頭が支払いを渋ったのが真相らしいのです。

悲劇の名君(ドラマでもイケメンが演じることが多い)浅野内匠頭ですが、実はこのお殿様、どうも性格に問題があった人らしいのです。

江戸時代の殿様を査定した本によると、浅野内匠頭は「真面目だけれどプライドが高く、キレやすい。極度の女好きでよく問題を起こしていた。」と書かれています。

吉良上野介のいじめというより、単なるキレやすい性格が刃傷沙汰を起こした…というのが松の廊下の真相のようです。

忠臣蔵の真相にしても、浅野内匠頭が辞世の句に「名残」という言葉を入れてしまったため、当時の武士の忠誠として「敵討ちをしなければならない雰囲気」になったから…という説もあるのだとか。

一方の吉良上野介はというと、接待の指導係を拝命するくらいなので、とてもインテリな旗本でした。領地経営でも新田開発や治水に力を注ぎ、自ら領地を見回って領民の声に耳を傾けたといった逸話も残っています。

物語では、最後は命乞いをしたり、スキを突いて卑劣な振る舞いをする吉良上野介ですが、史実によると最後は武士らしく抵抗したらしいのです。

まとめ

歌舞伎や講談などで美化されたり、後の治世者が自分たちを正当化するために前政権の悪評をばらまいたり…。
そんな歴史の改ざんのため、悪役の汚名を着せられている歴史上の人物は他にもいるのかもしれません。

最近では歴史研究がすすんで、従来の説を覆す歴史も増えてきました。今後はどんな人物の意外な顔が明らかになるのか、楽しみです。

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  この記事を書いた人
日月 さん
古代も戦国も幕末も好きですが、興味深いのは明治以降の歴史です。 現代と違った価値観があるところが面白いです。 女性にまつわる歴史についても興味があります。歴史の影に女あり、ですから。

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