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【九州一の大寺院】福岡県観世音寺をご紹介
- 2022/06/27
はじめに
筑紫観世音寺とは、福岡県太宰府市石坂に所在する寺院です。8世紀に造られた寺院であり、現在では国内に三か所しか存在しない「戒壇」があった寺院として、下野薬師寺、東大寺と共に「天下三戒壇」の一寺院として数えられています。
また、国宝である梵鐘や、重要文化財である木造観音菩薩坐像や木造馬頭観音菩薩立像が納められており、福岡県内有数の工芸品・仏像の宝庫としても有名な場所でもあります。
今回はそんな歴史ある観世音寺を紹介します!
1、観世音寺の「七転び八起き」な歴史
続日本紀によると、和銅2年(709)2月2日、母の斉明天皇の冥福を祈るために天智天皇が観世音寺の造営を開始したとされています。しかし完成まで約80年の年月がかかり、天平16年(746)に造営完成を祝う儀式が執り行われました。天平宝字5年(761)に、お坊さんや尼さんに戒律を授けるための戒壇院が設置され、大宰府の繁栄と共に九州一の大寺院として栄えました。その後、金堂の焼失や豊臣秀吉による寺領の没収などが重なり、廃寺寸前まで追い込まれましたが、江戸時代に入ると黒田藩の保護により、伽藍の再建が行われました。
現在の観世音寺境内にある建物は再建されたものです。また、元禄16年(1703)に戒壇院が観世音寺から分離され、一寺院として数えられるようになりました。
2、伽藍配置は超レア!?観世音寺の境内と文化遺産
昭和32年(1957)に、講堂跡・中門跡・回廊跡の位置関係の伽藍配置の究明を求める調査が行われました。その結果、講堂の桁行7間・梁行4間が判明し、回廊に講堂が付いている伽藍配置であることが判明しました。詳しく説明すると、中門から伸びる回廊が東塔と西金堂の東面を囲み、講堂に付いており、蝦夷討伐の中枢施設であった多賀城付近にある多賀城廃寺と同じ配置です(以下の図を参照)。
※観世音寺の伽藍配置
また、この伽藍配置のモデルは、斉明天皇ゆかりの寺院の大和川原寺にあり、観世音寺からは川原寺式の軒丸瓦が一点出土しています。伽藍配置の研究では、『観世音寺式』という型式名が付けられていて、重要な伽藍配置として注目されています。
私が前にこのサイトで投稿した、川原寺の記事には川原寺の伽藍配置を載せています。観世音寺の配置と比較したら面白いと思います!
日本で最も古い鐘!観世音寺の梵鐘
国宝の梵鐘は現在は九州国立博物館で展示されています。※国宝の梵鐘。九州国立博物館に移る前は観世音寺境内にあった。
竜頭は荒削りの力強い表現で、笠形は低平で、圏線をめぐらせて内外両区に分け、上帯、下帯は各々異なる連続唐草文を力強い表現が特徴です。撞座は蓮肉の大きい複弁十二葉で、笠上に「天満」「満」と2ヶ所陰刻があり、口唇の下面に「上三毛」(現在の築上郡)「……麻呂」と陰刻があります。
鐘身は妙心寺の文武天皇2年(698)銘のある鐘とほとんど同じ大きさで、おそらく飛鳥時代に京都妙心寺鐘に先行して、同じ工房で制作されたものだと考えられています。
おわりに
観世音寺の歴史や概要に関して説明しました。観世音寺は、前回紹介した大和川原寺と関係を持つ寺院であり、伽藍配置や出土した瓦からその関係性を理解できます。また、古代寺院研究において、観世音寺の伽藍配置は特に押さえておくべきものです。
お寺が好きな人は是非一度、観世音寺に足を運んでみてはいかがでしょうか。
◆ 参照文献
岩永省三2009「老司式・鴻臚館式軒瓦出現の背景」『九州大学総合研究博物館研究報告』
鏡山猛1969「大宰府と観世音寺礎石に就いて」『史淵』101号pp1-12
九州歴史資料館 2005 『観世音寺 伽藍編』九州歴史資料館
九州歴史資料館 2006 『観世音寺 寺域編』九州歴史資料館
谷口鉄雄・波多江一俊・岡崎讓治1952「筑紫観世音寺の梵鐘」『哲学年報』p133-166
福岡市教育委員会 2009 『老司瓦窯跡』福岡市埋蔵文化財調査報告書1062
平岡定海1985「筑前國観世音寺の構造とその性格について」『大手前女子大学論集』pp43-82
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