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ペリーと捕鯨とアメリカ領小笠原

幕末、アメリカのペリー提督はいわゆる「黒船」でとつぜん現れ、大砲で強引に脅しては開国を迫った。というのがこれまでの歴史の通説です。

でも実はペリー提督、とても有能で人道的な人物であり、黒船来航も開国を迫るため、わざと高圧的に行なったという説があるそうです。そして、その裏には当時の貿易事情が複雑にからんでいました。

アメリカの目的は開国より捕鯨?

アメリカがペリー提督を派遣した目的は「日本を開国し、外国人が自由に貿易を行えるようにする」ではなく、実は「捕鯨のための補給基地がほしかったから」なのだとか。

当時、捕鯨はアメリカでも盛んに行われていて、クジラから取れる鯨油はランプや工業用としての需要が高かったのです。

今でこそ「クジラを殺すなんて、日本人はなんて野蛮なんだ!」とアメリカやヨーロッパに糾弾されている日本の捕鯨ですが、もともとは彼らも積極的に捕鯨を行っていたんですね。

捕鯨基地・小笠原諸島の欧米人

浦賀湾に来航する前、ペリー提督は小笠原諸島に寄港していました。小笠原諸島は当時、捕鯨の中継基地として栄えていた島だったのです。

実は、江戸時代の小笠原に最初に住んでいたのは日本人ではなく、外国人だったのです。当時は「ボニンアイランド」と呼ばれ、捕鯨基地として欧米系やポリネシア系の人々が住んでいました。

その後、日本の領土となり日本人も入植しましたが、太平洋戦争後はアメリカ領になり、島民は苦労を強いられたそうです。アメリカ領時代、小笠原の子どもたちは日本ではなくグアムの中学や高校に通っていたのだとか。

人徳者で有識者なペリー提督

捕鯨と貿易の中継地点として、どうしても日本と交渉する必要があったアメリカは、黒船で脅すという強硬手段にでます。

そうした歴史的事実のせいで、ペリー提督は当時の浮世絵師によって赤鬼のごとく描かれていました。現代のドラマでも、ペリー提督は尊大な態度をとって強引に要求を通そうとする人物として表現されています。

しかし、実はペリー提督、当時の欧米人にしては差別意識が少ない人で、黒人奴隷の開放活動を行ったり、アフリカへの再帰国を支援したりしていました。ほかにも、家族思いで奥さんに頭があがらなかったり、子どもがケンカをしないように注意する手紙を書いたりと、子煩悩な一面もありました。

また、ペリー提督は日本との交渉前に、日本に関する書籍を何十冊も読んで勉強をしていました。

その研究の結果として「日本人には高圧的に出たほうが交渉しやすい」と考え、あえて大砲をちらつかせたのだとか。

まとめ

これまでの歴史の常識だと、単に「アメリカが強引に、日本に開国を迫った」ことになっていましたが、その裏には当時の欧米諸国による貿易の覇権争いや、捕鯨基地の確保など、複雑な要因が絡み合っていました。

また、ペリーについても新たな事実が判明しています。NHK「ブラタモリ」伊豆下田編によると、ペリーは幕府から下田に追いやられたものの、最終的には下田が気に入り、現地の人々ととても仲良くなったそうです。

コミュニケーション力にも長けていたのでしょうね。そんなペリー提督、写真に残るフサフサな髪は、なんと「かつら」だったそうです…。

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  この記事を書いた人
日月 さん
古代も戦国も幕末も好きですが、興味深いのは明治以降の歴史です。 現代と違った価値観があるところが面白いです。 女性にまつわる歴史についても興味があります。歴史の影に女あり、ですから。

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