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水戸黄門は元ヤンで、犬将軍は名君?新事実に見る偉人たち

日月
 2022/09/12
かつて国民的人気を誇った「水戸黄門」という時代劇。そのモデルとなったのが水戸藩二代藩主・徳川光圀です。

ドラマでの黄門様は「越後のちりめん問屋の隠居、光右衛門」と名乗り、助さん格さんと諸国を漫遊し、悪い役人を倒して最後は印籠を出して一件落着…。というのが、私たちのよく知るストーリーです。

一方、光圀公と同時代の将軍・徳川綱吉は、「生類憐れみの令」を発布し庶民を苦しめたとして「犬将軍」と揶揄されるほど嫌われていました。

いったいなぜ、光圀公はヒーローで、将軍綱吉は悪役となったのか、そのあたりを調べてみました。

水戸黄門はなぜヒーローとなったのか

水戸黄門がヒーローとして有名になったきっかけは、講談『水戸黄門漫遊記』です。実際の光圀公は、生涯で2回くらいしか旅行に行っていませんが、なぜか物語では諸国を漫遊して悪を懲らしめることになっています。

『水戸黄門漫遊記』のルーツをさぐってみると、どうやら光圀公はもともとヤンキーっぽい気質があったようで、それが物語に関連しているらしいのです。

光圀公、若い頃のやんちゃエピソード

若い頃の光圀公はとにかく破天荒。吉原遊廓に通ったり、ケンカに負けそうになると刀で脅したりと、今のヤンキーも顔負けのやんちゃな若者でした。

それでも黄門様、そんな破天荒な若者時代も学問だけはおこたりませんでした。遊郭を文化サロンとして、文化人や芸能者(能役者)などと知的な会話を楽しんだり、その後、儒学を学ぶために中国から学者を招いたりしていました。

もっとも、その学問オタクのせいで『大日本史』の編纂費用がかさみ、藩の財政を圧迫したという一面もあるのですが…。

将軍相手にもひるまないヤンキー気質

そんな学問オタクで、ヤンキー気質の光圀公ですが、下には優しく、上には厳しいその姿勢が、当時から名君として庶民に慕われていたそうです。

光圀公の有名なエピソードに「生類憐れみの令」に憤り、将軍綱吉への献上品として、なんと「犬の毛皮」を送りつけたというものがあります。
これには庶民も大喝采!このあたりのエピソードが、後の『水戸黄門』時代劇への布石となったようですね。

徳川綱吉はなぜ「生類憐れみの令」を発したのか

一方、悪法と忌み嫌われる「生類憐れみの令」を発した将軍綱吉。そもそも、「生類憐れみの令」とはなんだったのか。

法令の一部をみてみると、こんな感じです。

・犬を広い敷地に集めて飼育すべし
・動物を捨てること、殺すことは禁止
・蚊やハエ、ノミなどを殺してもダメ

とまあ、なんというか、やりすぎた感じのする法律でした。

平和な世を目指す理想主義者

実は、最近の研究によると「生類憐れみの令」には別の側面もあったらしいのです。綱吉が将軍職についた頃、戦国の殺伐とした世の中だったため治安も悪く、殺人や捨て子なども日常茶飯事でした。

そこで、綱吉は儒教の教えを取り入れ、博愛の世の中を築こうとしたのです。当初は動物だけでなく、子どもや病人を救済する施設もつくられました。

ばく大な資金を投入して作られた犬の飼育施設も、野犬の驚異から人々を守ることにもなりました。江戸時代は狂犬病予防ワクチンなどありませんでしたから、少なくとも庶民が野犬に噛まれて狂犬病にかかる確率は減少したようです。

しかし、20数年にわたり何度も追加された生類憐れみの令は、どんどんエスカレートしていきます。最終的には、蚊を殺したせいで島流しになったという人まで現れました。

最初は平和な世の中を作るための法律だったのに、思うように成果があがらないため、どんどん厳しくなり、法が現実とかけ離れていったらしいのです。

そのため「生類憐れみの令」とそれを発した綱吉は、後の世まで嫌われてしまいました。

なにせ、庶民の暮らしなど存じ上げない将軍様のこと。理想と現実の違いを認識できなかったのでしょう。もしかしたら、それが綱吉が悪としてとらえられた原因の一つではないでしょうか。

まとめ

光圀公も将軍綱吉も、人を尊ぶ儒学の教えを学びました。特に光圀公の師・朱舜水は空論ではない実学的な学問を教えたそうです。

将軍綱吉も自ら大名に講義するほど儒学に傾倒していましたが、彼の学問は自分だけで完結する「空論」になってしまったことが、二人の評判を分けることになったのかもしれませんね。

  この記事を書いた人
日月 さん

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