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昔の不良少女と呼ばれた娘たち 男装からギャング団まで

明治から大正、昭和初期にかけて「女性は貞淑で男に従順であれ」と、男たちや社会から押し付けられてきました。しかし、そんな中でも継母との不和や家庭内での問題、貧困などから世間に逆らい、不良に走る少女たちがいました。

そんな昔の不良少女達の生き様は、一体どんなものだったのでしょうか。

明治の断髪ガール

家長制度の残る明治時代は、貧しい家を助けるために遊郭に身を売る娘が当たり前でした。当時、女性は家のために生きることを義務付けられていたのですが、そうした風潮にあらがった不良少女たちもいました。

彼女たちは親が稼いだ金で役者を追いかけたり、令嬢に変装して窃盗を働いたりと、不良ぶりもさまになっていたようです。中には日本髪の「銀杏返し」をバッサリと切って男装する少女もいて、思い余った父親が警察に相談することもあったとか。

この頃は男性の浮気は公認されていたのも、少女たちの不良化の一因でした。ある不良少女の家では、父親が下女に手をつけて子どもを産ませたことに憤った娘が不良になる、という話も残っています。

大正の不良少女団

大正時代に入ると、不良少女たちは本格的な犯罪組織・ギャング団を結成していきます。

不良少女が集まる場所

いつの時代でも、不良がたまり場にする場所はあるものです。現代ならコンビニの駐車場や繁華街などですが、大正時代の不良少女たちもまた、カフェーやオペラ劇場などに集まっては悪事をはたらいていました。

大正時代は映画やオペラといった大衆文化が花開いた時代で、少女たちは映画女優やオペラ歌手に憧れる年相応のあこがれを持ちつつも、都会の犯罪に巻き込まれて身を持ち崩すものもいたとか。

丸ビルのハート団事件

丸ビルは大正12年、東京駅前に建てられました。リニューアルを経て現在も営業しています。当時は最先端のビルであり、そこで働く女性たちは「職業婦人」として世の注目を集めていました。

しかし、最先端の職業婦人であるはずの少女たちが、裏では不良少女団として売春やゆすり、美人局(つつもたせ)などの悪事を働いていたのです。

ハート団のリーダー・林きみ子は「ジャンダークおきみ」という二つ名を持ち、タイピスト養成所から女子を勧誘してはハート団へ入団させていたそうです。

なぜ、当時最先端の技術をもつ職業婦人がこんなことを…?と思いましたが、いくら技術をもっていようとも、当時の女性の給料は男性に比べて格段に低く、彼女たちがパラソルや着物など欲しい物を買うためには「副業」が必要だったようです。

ハート団事件については、須賀しのぶさんの小説『くれなゐの紐』にも詳しく描かれています。グループで売春をおこなったり、グループ同士で壮絶なケンカをしたりと、不良少女たちのスタイルは今も昔も変わりませんね。

おわりに

今も家庭の事情や貧困などから、不良に走る少年少女は少なくありません。しかし、昔は男尊女卑の世の中、新聞は面白おかしく彼女たちを扱いましたし、世間の風当たりは現代よりも辛かったことでしょう。

それでも彼女たちは世間をはばかりながらも、したたかに男たちを手玉にとり、女たちを騙しては悪事を重ねていたようです。

不良とは言え世間に抗って生きた不良少女達の姿は、恐ろしい反面、どこか痛快さを感じてしまうのです。


※参考書籍
  • 平山亜佐子『明治・大正・昭和 不良少女伝 ――莫連女と少女ギャング団』(河出書房新社、2009年)
  • 須賀しのぶ 『くれなゐの紐』(光文社、2016年)

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  この記事を書いた人
日月 さん
古代も戦国も幕末も好きですが、興味深いのは明治以降の歴史です。 現代と違った価値観があるところが面白いです。 女性にまつわる歴史についても興味があります。歴史の影に女あり、ですから。

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