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戦前の映画がほとんど現存しない理由とは?

時おりニュースで「戦前の映画が海外で発見される!」と大きく報道されますが、なぜニュースになるほど重要なことなのでしょうか。実は、戦前の映画はその9割が行方不明だから、発見が珍しいのです。

今では考えられない、戦前の映画上映

戦前の映画が行方不明と聞いて「関東大震災や戦争があったから、フィルムが消失した」と考えてしまいますが、実は災害や戦争だけが理由ではありません。

戦前には、今では考えられないような当時のずさんな映画管理によって、貴重な映画フィルムが失われることも多かったのです。

ずさんなフィルム管理

現代の映画館ではデジタル形式で上映されるものがほとんどですが、昔は映画のフィルムを映写機にかけて上映していました。そのため、映写技師がその場で勝手にフィルムをカットすることもあったとか。

有名な映画『ニュー・シネマ・パラダイス』でも、映写技師のアルフレードが映写室で検閲でのNGシーンをカットしていましたから、フィルムカットは日常的におこなわれていたのでしょう。

昔は映画の権利や管理体制が確立されていなかったので、映画館でフィルムを裁断して勝手に販売してしまうなど、今では考えられないようなことが行われていました。

撮影現場の事情

勝手に編集したり、名前を変えて上映したりと、映画館側も適当な上映をおこなっていましたが、撮影の現場でもまた、さまざまな事情でフィルムが残らなかったのです。

昭和初期から30年代にかけては映画全盛期で「早く安く」をモットーに、フィルムの使い回しのほか、同じ脚本で違うタイトルの映画が撮られることもありました。

…いやもう、現代では考えられないずさんさですね。また、フィルムが燃えやすく劣化しやすいため保存が困難だったこともあり、戦前の映画は殆ど残っていないのです。

失われた映画を探す探偵たち

戦争が終わり、日本が落ち着きを取り戻し始めた頃になると、人々は昔の映画が失われたことに気づき、捜索を始めます。戦後、貴重な映画を記録・保存するフィルムアーカイブ団体が各地で設立され、失われた映画の捜索が始まりました。

失われた映画の中には名作も多く、映画雑誌『キネマ旬報』で1位を取った『忠次旅日記』も、長い間行方がわかりませんでした。

そんな『忠次旅日記』の一部は、1991年に広島の民家からフィルムアーカイブへの連絡がきっかけで発見されました。

しかし当時の映画は上映側が勝手に他のフィルムをつなげてしまうため、見つかったフィルムは本物かどうか判断が難しいのです。

そこで判断の一翼を担ったのが映画ファンの集めた資料だったそうです。当時の資料に中部地方で上映の記録があったこと、ファンが記録していたシーンと同じ構成だったことで確認がとれました。

いつの時代もファンの情報収集力は侮れませんね。

ソ連崩壊とフィルム奪還

戦前、日本は満州、朝鮮、台湾を植民地としたことで、多くの日本人が現地に住んでいました。また、海外への移民も奨励されたことで、世界各地で日本映画が上映されていました。

戦争終結後、海外の日本映画フィルムは散逸。一部は戦勝国であるアメリカやソ連に接収され、行方がわからなくなったそうです。

そんな中、長らく行方不明だった名作『何が彼女をそうさせたか』がロシアで発見されました。

『何が彼女をそうさせたか』は当時、新興の映画会社だった帝国キネマの作品です。

帝国キネマの創業者を祖父に持つ 映画館経営者が、なんとしても自館で祖父の制作映画を上映したいという執念から、瓦解したソ連の混乱に乗じてフィルムを買い取ってきたのだそうです。

この買取りの話、これだけで一本の映画がつくれるくらいドラマチックです。

まとめ

もし、あなたの家を整理した時に映画フィルムを入れた丸い缶があったら、捨てずにフィルムアーカイブへ連絡してみてください。

もしかしたらそれは、失われた名作映画かもしれませんから…。


※参考書籍
  • 高槻 真樹『映画探偵 失われた戦前日本映画を捜して』(河出書房新社、2015年)

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  この記事を書いた人
日月 さん
古代も戦国も幕末も好きですが、興味深いのは明治以降の歴史です。 現代と違った価値観があるところが面白いです。 女性にまつわる歴史についても興味があります。歴史の影に女あり、ですから。

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