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なぜ歴史から消えたのか? 江戸幕府の幕臣・小栗忠順の驚愕の功績とは
- 2023/06/29
歴史から抹殺された偉人とされる小栗忠順(おぐり ただまさ)。小栗の偉大さと功績を知る日本人は少ないかもしれません。
小栗忠順ってこんな人
小栗忠順は江戸末期の幕臣で、1860年には日米修好通商条約の使節として渡米しています。帰国後、外国奉行・勘定奉行・軍艦奉行などを歴任し、幕政改革にも活躍しました。幕臣でありながら100年先が見えていた人物ともいえるでしょう。渡米した際、アメリカ造幣局員が、日本の天秤の精密さと小栗の計算の速さと正確さに驚愕したといいます。小栗は横須賀に造船所を建設し、ここで作られた軍艦がロシアのバルチック艦隊を打ち破るために大きな力を発揮しているのです。この造船所は現在でも米軍が利用をしているほどの施設なんですよ。
さらには、商人から資本を集め商社を設立したり、フランスから武器を購入し国際化を推進、日本初の西洋式火薬工場も建設しています。
数え上げたらまだまだある小栗忠順の功績。明治維新政府は、小栗がしようとしたことをしただけとも言われるほど、日本の発展に大きく貢献した人物なんです。それがあまりに凄すぎて、周囲から恐れられることとなり、悲劇に見舞われてしまいます。
凄すぎた功績
時は幕末、列強による外圧が迫る中、国内では攘夷の烈風が吹き荒れていました。そんな時、世界を見据えて早々に新国家構想を打ち出した人物がいます。軍事面において、4年計画で横須賀に大造船所を建造することを発案し、歩兵・騎兵・砲兵という近代的な軍隊を考案した人物は誰だったのでしょうか。そして経済面では、対外為替相場を改定して貨幣を改銭し、日本最初の兌換紙幣を発行させた人がいます。さらには日本に貿易商社を設立し、外国との取引を有利にしようと試みた者も…。
実はこれらの全ては、なんと小栗忠順によるものなんです。
まだまだこれだけではありません。役人の俸給制度を米から金に改め、恩給法を制定、所得税・奢侈税を設けたのも小栗忠順です。その上、日本に最初の理工科系学校や外国語学校を立ち上げ、江戸の街でガス灯の普及を図り、豪華な洋風ホテルである築地ホテルを計画し、新橋・横浜間に鉄道を敷設して、日本の近代化を推進したのも小栗忠順です。
そんな小栗忠順が廃藩置県を断行し、日本を欧米に遅れることなく中央政権と郡県制度の構成にしようと力説していたのです。
驚きの小栗戦術
小栗は対薩長軍への対策として、将軍・徳川慶喜に主戦論を説きました。西軍の進行に対して途中での対戦は抑え、西軍の全てを関東に入れた後に、全ての関門を閉鎖して袋のネズミに。一方、待機していた軍艦が、馬関(現下関)と鹿児島を攻撃。これで、日和見してしていた天下の諸藩が味方となるであろうと。これで一気に形勢が逆転するという作戦でした。
のちに西軍司令官の大村益次郎が江戸に入ってから、この小栗の周到な戦術を聞かされて戦慄したそうです。「これが実行されていたら、西軍は全滅していただろう」と語ったと伝えられています。
しかし小栗の進言に、将軍徳川慶喜は聞く耳を持ちませんでした。それでも小栗が強硬に主張するので、ついに免職を言い渡されてしまいます。海軍では副総裁・榎本武揚らが主戦論者であり、陸軍奉行・大鳥圭介も徳川慶喜の江戸帰還直後に江戸城を訪れ、将軍に直談判しています。その甲斐もなく、大鳥の決死の直訴も慶喜には理解されませんでした。
これより先、薩長両軍が中心となった総勢5万人の西軍が続々と京都を出発します。戦闘なしで品川に到着した東山道軍は、近藤勇を局長とする勇猛な新撰組隊士らを撃破し、板橋と府中に到着して江戸城総攻撃に備えます。そして慶応4年(1868)3月13日、江戸城は無血開城されることになったのです。
徳川慶喜は決断できないまま、何もできませんでした。もし小栗忠順の進言を聞き入れておけば、日本は大きく変わっていたと言っても過言ではないでしょう。
上州への移住
徳川慶喜から罷免された小栗忠順は、幕府に「上州群馬郡権田村への土着願書」を差し出します。権田村を選んだのは、小栗家と権田村民との間に代々培われた繋がりの強さがあったためでした。早々に上州への移住が開始され、忠順と家臣・家族一行は、村人たちに温かく迎え入れられたのです。
ところが落ち着く間もなく、後を追うように暴徒の集団が隣村・三ノ倉村まで押し寄せて来たという情報が入ります。小栗が権田村へ引き移る際、小栗一家と家臣らの家財だけでもかなりの量です。長持・行李・漬物樽など、大量の引越し荷物を運んだため、最後の勘定奉行を務めた小栗が「軍用金」を運んだという噂が流れたのです。暴徒の集団も、その軍用金を目当てに押し寄せて来たものでした。
三ノ倉宿に集合した暴徒たちは、気勢を挙げて権田へ押しかけます。烏川を渡りだした暴徒を望遠鏡で見ていた小栗は、傷つけずにおどして追い払え、と指示をしました。
烏合の衆の暴徒に対して、小栗方にはフランス式の軍事訓練を受けた子息を含めた歩兵が16人もいて、組織的な戦闘には慣れていたのです。特に権田村出身の歩兵・佐藤銀十郎の戦いぶりは素晴らしく、的確に暴徒を倒していきました。2000人を越える暴徒を追い払うと、暴徒に組した村々へ詰問の使者を送ります。その結果、夜になってから4カ村の村役人が詫びを言いに羽織袴でやってきたそうです。
恐ろしさ故の小栗追討令
暴徒の騒動が一旦静まり、村は平穏を取り戻します。しかしこれを機に、西軍の監視の目が厳しく注がれ始めたのです。暴徒が西軍の陰謀だったと言えないことはありませんが、2000人を越す暴徒の軍勢を完璧なまでに撃退した人物が幕府でも第一級となる主戦論者であったこと。そしてその見事なまでに兵法的な実力を存分に発揮した小栗は、江戸を目指す西軍にとって見逃せない、強大な脅威として映っていたのです。
薩長軍とっては、幕府が実行した近代化政策の中心人物だった小栗忠順は、恐るべき実力者であるということが頭から離れなかったのでしょう。
高崎・安中・吉井の3藩に、西軍の総督府から小栗追討令が発せられます。砦や砲台を築き、謀反の企てをしているというのが理由でした。
3藩の代表は命令を受け、現地に行きますが、命令のような謀反は見えません。さらに小栗が所持していた武器を全て差し出して弁明をしたので、3藩の代表は引き上げたのです。総督府の軍監、原保太郎と豊永貫一郎は、その報告を聞いて激怒します。
とにかく小栗を抹殺せよ
西軍に脅され震えあがった3藩は、22歳の長州藩士の原保太郎と18歳の土佐藩士・豊永貫一郎に従い、再度出兵します。しかし戦になると思って出兵をした西軍でしたが、東善寺の本堂で忠順主従は静かに待っていました。そんな抵抗もしない忠順主従を捕らえ引き立てたのです。この時、小栗に対する取り調べは一切なく、問答無用で抹殺することだけが目的でした。
小栗忠順が生きていれば、必ずや西軍が滅ぼされる。その恐怖が薩長の首脳たちを包み込み、日々恐れおののいていたことでしょう。それが証拠に、小栗と同じ主戦論者だった榎本武揚や大鳥圭介は生き残り、明治政府の首脳として活躍したのです。
その後、小栗忠順主従は烏川の水沼河原に引き出されて斬首されます。初めに家臣の3人が斬られ、続いて小栗忠順が斬首されました。
小栗は数えで42歳、日本の近代化にたぐいまれなる実力を発揮し、幕府の最後を支えた幕臣でした。何の取り調べもなく、何もわからぬ西軍の若輩により一方的に処断されたのです。
斬首を命じた原保太郎はその後、山口県の知事として20数年も君臨し、北海道長官となって巨財を得ます。そして貴族院議員になり、89歳まで栄華を誇ったのでした。
日本に必要な人物は抹殺され、暗殺者のような人物が富と贅沢を得る。やっぱり神様なんていないと思ってしまいますね。
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