寺田屋騒動で散った有馬新七 過激な尊攘派浪士の生涯とは
- 2023/08/29
有馬新七(ありま しんしち)は、薩摩藩の過激な尊王攘夷派のリーダーとして活動した人物である。文武とも優秀な有馬は、早くから頭角を現すが、その過激さゆえ、壮絶な最期を迎えることになった。
今回は、西郷隆盛と肩を並べるほどの実力を持ちながら、若い命を散らしてしまった有馬の生涯と、彼の命を終わらせた寺田屋騒動について紹介する。
今回は、西郷隆盛と肩を並べるほどの実力を持ちながら、若い命を散らしてしまった有馬の生涯と、彼の命を終わらせた寺田屋騒動について紹介する。
幼少のころから才気煥発な有馬新七
有馬新七が誕生したのは、文政8年(1825)11月4日で、西郷隆盛よりも2歳年長である。薩摩藩伊集院郷(現・鹿児島県日置市伊集院町)の郷士だった坂木四郎兵衛の子として生まれた。父の坂木四郎兵衛が文武に優れた人であり、のちに城下士である有馬家の養子となり、新七も有馬姓となる。ちなみに城下士とは、薩摩藩の武士階級の1つで、郷士より格上の身分である。
文武に秀でた新七
薩摩藩・練武館の教授であり、真心影流の達人である坂木六郎は、新七の叔父に当たる。新七は、幼いころからこの坂木六郎より直心影流を学び、その才能を開花させた。学問の方も、14歳で山崎闇斎を創始とする崎門(きもん)学派を学び、文武とも秀でた能力を見せていた。江戸留学で過激思想に?
天保14年(1843)に江戸へ出仕した新七は、崎門学の山口菅山の門人となり、梅田雲浜(うめだうんぴん)ら思想家とも交流するようになる。ペリーの浦賀来航以来、次第に混乱してくる世情の中、もともと激しい気性だった新七は、いよいよ先鋭化し、過激な尊王攘夷論者になっていった。
順調な出世の道をたどっていた新七
過激な思想を内に秘めながらも、新七はその明晰な頭脳で藩内でも頭角を現していった。安政4年(1857)に薩摩藩邸学問所の教授に就任した。翌年には藩命により薩摩に帰国し、万延元年(1860)に伊集院郷石谷村の統治を命じられている。文久元年(1861)には、薩摩藩の藩校・造士館訓導師(教師)にもなった。
精忠組の過激派リーダー
薩摩藩内には、西郷隆盛をリーダー的存在とする精忠組(のちに名づけられた)という政治思想集団のような組織があり、新七もそのメンバーであった。精忠組にはほかに、大久保利通・海江田信義・伊地知正治ら明治維新の原動力となった人々がいた。新七はその中でも過激派の代表と目されており、安政の大獄後には、水戸藩士らとともに井伊直弼暗殺計画(桜田門外の変)も謀っている。
暗殺計画は、薩摩藩・島津久光の同意が得られずに手を引いたが、同じ精忠組の有村雄助・治左衛門の兄弟だけは計画に参加し、井伊直弼の首を落としている。
志半ばで手を引いた新七は、結果的に水戸藩を裏切ることになったことをどのように思っていたのか。この後も新七の過激さはエスカレートしていく。
文久元年に造士館訓導師になった新七は、自らの信じる尊王攘夷思想を藩士たちに教えたこともあり、多くの若者たちがその思想に影響を受けていった。
分裂する精忠組
精忠組、特に新七をリーダーとする過激派の暴走を止めるべく、島津久光は精忠組の取り込みを画策する。主要メンバーのうち西郷隆盛は島送りになっていたため、久光は大久保利通に働きかけた。久光の方針に従った大久保利通と過激思想の新七との間には、次第に溝ができ始める。新七は、あくまでも過激な尊王攘夷思想を突き進む。精忠組は、穏健派と過激派に分裂していった。
悲劇への幕開け「寺田屋騒動」
文久2年(1862)4月13日、島津久光は公武合体運動を推進するため、兵を率いて上京する。久光の上京を好機と見た有馬新七率いる過激派精忠組は、今こそ薩摩藩が薩摩藩をリーダーとして討幕を実行すべきであると考えた。その方法は、京都所司代・酒井忠義と関白・九条尚忠を殺害し、相国寺に幽閉されている青蓮院宮を救出、宮に討幕の詔勅を出させ、京の町に火をつけて討幕を呼びかけるというものだった。
寺田屋集結
4月23日。彼らは、計画を練るために京都伏見の寺田屋へ集まった。新七をはじめとする精忠組のほか、討幕の志を持つ他藩藩士や浪士たち。 新七らの暴走を知った久光は激怒し、彼らの計画を阻止するように命じた。従わない場合は、上意討ちであると。鎮撫側の大山格之助、奈良原喜八郎ら8名は、いずれも剣の使い手。つまり久光は初めから粛正するつもりだったのではないか?
彼らの鎮撫・説得に向かった藩士の多くが精忠組、そしてその相手も同じ薩摩藩の精忠組。同じように議論を戦わせ、未来を語り合っていたであろう彼らが、命を懸けた話し合いに挑んでいた。奈良原らは、新七との話し合いを持とうとした。
「無謀な計画をあきらめて藩邸に同行せよ」
「これこそが真の攘夷、我々が討幕の旗手となる」
しかし、話し合いは平行線のまま時間だけが過ぎ、次第に剣呑な空気に支配されてきた。
壮絶な斬り合いへ
双方の緊張がピークに達したとき、とうとう鎮撫側の道島五郎兵衛が抜刀し、田中謙助の頭部に斬りかかった。これを合図に薩摩藩士同士の斬り合いが始まってしまう。頭を斬られた田中は昏倒、これに激高した新七が道島に斬りかかる。しかし、刀が折れてしまったため、新七は道島に組みかかって壁に押し付けると、すぐ近くにいた橋口吉之丞に「おいごと刺せ(俺ごと刺せ)!」と叫んだ。
橋口は、新七の背中越しに道島めがけて刀を突きさし、道島はもちろん、新七も命を落とした。享年38歳。
鎮撫側の死者はこの道島1人、過激派側では、新七以外に橋口壮介・橋口伝蔵・柴山愛次郎・西田直五郎・弟子丸龍助の6人が死亡。重傷を負った田中謙助と森山新五左衛門も、のちに切腹させられた。この策に加わるはずだったが病気のために寺田屋にいなかった山本史郎は、帰藩ののち謹慎するよう命じられたが、従わなかったために切腹させられている。
合計9人もの若い命が散ったのである。
事件後の始末
死亡した彼ら以外の薩摩藩士は、ほとんどが投降し薩摩へ返されて処分を受けている。そして死亡した新七らの遺体は菩提寺への埋葬を許されず、遺族は薩摩藩士の籍をはく奪された。この企てには、薩摩藩以外の浪士や藩士も加わっていたが、彼らも投降、もしくは逃亡している。久坂玄瑞、清河八郎、平野国臣、真木和泉、品川弥次郎、吉村寅太郎など、そうそうたるメンバーは、それぞれの藩に返されて処分を受けた。しかし彼らのほとんどは、明治維新を見ることなく命を落としている。過激な思想と行動が彼らを死に急がせたのかもしれない。
受け入れ先の無い浪士は、薩摩に保護されたのだが、それは表向きのこと。浪士たちは「日向送り」と言われる処分を受けていた。西郷隆盛と月照が日向へ送られる途中、ともに入水自殺(西郷は助かっている)をしたように、これは途中で処刑されることを意味する。
「日向送り」にされたのは、田中河内之介以下6名。それぞれが船内で斬殺され、遺体を海に投げ捨てられたという。
有馬新七の墓はどこに?
寺田屋騒動により死亡した新七らは、大罪人として士分をはく奪されていたが、事件の2年後、薩摩藩の恩赦により士分に復帰することができ、寺田屋に近い大黒寺と言う寺院に手厚く葬られた。墓碑銘は西郷隆盛が書き、石碑を建立している。この石碑は今でも見ることができ「伏見寺田屋殉難九烈士之墓」という文字が刻まれているのがわかる。新七の息子・幹太郎も、恩赦によって士分を回復し、戊辰戦争にも従軍している。そして、明治24年(1891)12月17日。有馬新七は、明治政府より贈従四位を授与された。寺田屋騒動から30年近く後のことである。
おわりに
維新前夜の幕末期は、多くの若者が国の未来を憂い、自らの思想を全うしようと命を落とした。有馬新七もそんな若者のひとりだろう。自分のやり方が最も正しい、正しいはずだという思いと、自らが道を開くという誇りだけで、行動し、短い生涯を終えた。無駄死にのようにも思えるはかない最期だが、そんな彼らのエネルギーがあったからこそ、明治維新があり今があるのかもしれない。明治維新が起こったことの良し悪しは、私にはわからない。しかし、幕末の世に、命を懸けて国の未来を憂いた多くの若者がいたことを忘れてはならないと、わたしは思う。
【主な参考文献】
- 中村彰彦『幕末入門』2013年
- 泉秀樹『幕末維新人物事典』1997年
- 『日本史人物辞典』 山川出版社 2000年
- 『幕末新聞』幕末新聞編纂委員会 1997年
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