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  • 伊達政宗
 2019/02/12

伊達政宗の子孫たちは栄えた?江戸時代以降の伊達氏

大年寺山の伊達家墓所(出所:<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B9%B4%E5%AF%BA%E5%B1%B1" target="_blank">wikipedia</a>)
大年寺山の伊達家墓所(出所:wikipedia

伊達政宗といえば、さまざまな逸話や伝説で知られる「奥州の独眼竜」です。彼は江戸幕府が開かれてからも、外様大名ながら大きな存在感を維持していたことが知られています。特に三代将軍家光には非常に重用されたとされています。

その後の伊達宗家は仙台藩主として、また庶家たちも「伊達一門」として仙台藩を支えるなど、江戸時代を通じて活躍していました。しかし、政宗の子孫ら伊達一族の姿はあまり知られていません。確かに太平の世が続いていたため、戦国時代にあったような合戦は起こらなくなっていました。そのため、どうしても江戸時代の大名たちは影が薄くなりがちです。
では、彼らはそのまま歴史の表舞台に登場することはなかったのでしょうか。それどころか伊達一門は幕末に近づくにつれてその存在感を増していきます。

ここでは伊達宗家や分家を紹介しつつ、伊達一門をめぐる歴史的に重要な出来事に触れていきたいと思います。
(文=とーじん)

政宗以後の伊達氏

まず、伊達氏が栄えた最大の要因として、幕府から外様大名ながら別格の扱いをうけていたことが指摘できます。そのため、伊達一門は御家取り潰しどころか、旗本や仙台藩以外の大名としても取り立てられました。

さらに、政宗は非常に多くの子をなしたことで知られています。その数は実に十男四女の計14人にのぼります。長男であった秀宗は妾の子であったため、長男ながら分藩され、伊予宇和島藩十万石の大名となりました。

これらの事情から、その数が膨大なために子孫の全てを紹介することは難しいです。そのため、伊達宗家とその後歴史的にも重要な役割を担う宇和島伊達家を中心に紹介していきます。

仙台藩主としての伊達宗家

さて、まずは仙台藩主の伊達宗家をみていきましょう。仙台藩の大大名として江戸時代を通じて大きな石高を維持しますが、内部では権力争いが過熱し「伊達騒動」ともよばれるお家騒動を引き起こすなど、必ずしも順調な治世ではなかったようです。

なお、記載の対象は伊達政宗を初代とした仙台藩主のみで、カッコ内は生没年です。

初代政宗(1567~1636)

言うまでもなく、伊達家にとって重要な役割を果たした人物です。伊達氏は関ヶ原の戦いで徳川方についたため、仙台藩62万石の大大名として繁栄しました。

二代忠宗(1599~1658)

政宗の嫡子にあたる人物で、非常に有能な人物としても知られています。藩政の執行体制を整え、寛永の総検地を実施しました。これらの活動は実を結び、伊達氏の基盤をさらに盤石なものにしたという評価がなされています。また、政宗を祀るために瑞鳳殿や瑞鳳寺を建設するなど、寺社の建設や再建をはじめとした文化面でも功績を残しました。

三代綱宗(1640~1711)

忠宗の死去に伴い、万治元年(1658)にわずか19歳で藩主となりましたが、酒乱の気があったようで、そこを家臣たちに咎められます。そして、この頃すでに活発になっていた伊達家の権力争いや、幕府の意向に影響される形で、わずか2年後の万治3年(1660)に重臣の連名で幕府に藩主交代の伺いが提出されました。すると幕府はすぐさまこれを認め、当時わずか2歳であった四代綱村が藩主となり、綱宗は隠居を余儀なくされました。その後、とうとう名誉回復の機会を得られないまま。正徳元年(1711)に江戸で没しました。

四代綱村(1659~1719)

わずか2歳で藩主となった綱村は、否応なく伊達家のお家騒動に巻き込まれることになりました。年齢が幼かったために、後見人として一門の伊達宗勝と政宗夫人の実家田村家の当主田村宗良が後見人に指名されました。二人の後見役はそれぞれ三万石を分け与えられましたが、宗良に比べて宗勝が非常に大きな権力を握り、宗勝に味方する派閥とそれ以外の派閥が形成されました。騒動は泥沼化し、幕府をも巻き込んで「伊達騒動」とよばれるお家騒動に発展していきましたが、最終的に幕府の介入で宗勝派が処分されることで一応の解決をみました。

しかし、藩主の綱村自身は幼かったため、お構いなしという沙汰を受けました。その後は藩の財政状況を改善するべくさまざまな施策を講じますが、どれも事態を悪化させるばかりであったとされています。また専制を敷いたことで伊達一門の不興を買った綱村は、先代同様に隠居を画策されるほどだったとされています。

五代吉村(1680~1751)

お家騒動に揺れていた仙台藩を立て直した中興の祖という評価がなされることも多い、名君とされています。当時危機的状況にあった藩政を改善しようと画策しましたが、領内の総検地に失敗するなど、必ずしも順調ではありませんでした。しかし、役職の整理や銅銭の流通などで功をあげ、米の換金が好調であったことも相まって財政を立て直したといわれています。

六代宗村(1718~1756)

文芸に優れ、和歌集を編纂するなど文芸面で活躍したとされていますが、大きな政治的事蹟は確認できませんでした。

七代重村(1742~1796)

家格を重視し、財政を顧みない藩政を敷いたために、二度も疑獄事件を起こし、さらには猟官運動で財政をさらに疲弊させていきました。その後、財政を立て直すべく貨幣の鋳造を促進させますが、かえって悪銭の流通に繋がりインフレを引き起こすなど、深刻な影響をもたらしたために幕府から鋳造の停止を命令されるほどでした。こうして政治的には暗君とされていますが、学問を好み和歌に優れた才能を発揮するという一面もありました。

八代斉村(1774~1796)

和歌を好み、文化的な功績が大きいとされる人物です。ただ、江戸から帰藩する際に暑気にあたったことが原因で、23歳の若さで死去しました。

九代周宗(1796~1812)

父の急死により、わずか生後6か月で藩主になりました。当時の仙台藩では大規模な百姓一揆が頻発するなど、藩政が非常に不安定な状態であり、藩の立て直しが求められていました。しかし、幼年の周宗にはどうすることもできないまま疱瘡に感染し、わずか19歳で隠居を余儀なくされると、その後すぐに病死しました。

十代斉宗(1796~1819)

早逝した周宗のあとを継ぐ形で藩主となりましたが、自分自身も間もなく病を患い、24歳の若さで死去しました。

十一代斉義(1798~1828)

藩主の早逝が続いたため、斉宗の養子となる形で藩主となりました。しかし、自身も満足に活動することのないまま、30歳の若さで死去しました。

十二代斉邦(1817~1841)

斉義が没したことをうけ、家督を相続しました。文化面では功績を残し、政治面でも財政難の立て直しを図るべく諸式の簡略化などに尽力しました。

十三代慶邦(1825~1874)

当時幕府に危機感をもたらしていた異国(ロシア)の警固を務めるなどの活躍がありました。しかし、明治維新が勃発すると、幕府との結びつきが強かった事から奥羽越列藩同盟の藩主として新政府軍と対峙することになりました。最終的に新政府軍に敗北し、仙台藩の領地没収と謹慎の処分が下りました。しかし、最終的には一命をとりとめ、減封の上家督の相続も認められました。

十四代宗基(1866~1917)

結果的に最後の仙台藩主となった宗基は、版籍奉還によって大名ではなく仙台藩知事に任命されました。その後は伯爵となり、華族の一員として北海道紗那村の支配などを行ないました。

十五代邦宗(1870~1923)

宗基の養子となった邦宗は、イギリスのケンブリッジ大学に留学し、帰国後は仙台で養種園を創設しました。そこでは、果樹・蔬菜の改良や普及につとめました。

十六代興宗(1906~1947)

学習院から東京農大へ進学し、卒業後は宮城県総合青年団名誉総裁や少年団日本総裁などに就任しました。

十七代貞宗(1937~1981)

学習院を卒業後、仙台博物館の名誉館長を務め、伊達氏にまつわる書籍の出版をするなど、歴史の保全や普及に貢献しました。

十八代(当代)泰宗(1959~)

宮城教育大学を中退後、学芸員の資格を持っていることから、大河ドラマ『独眼竜政宗』の監修や、伊達氏にまつわる数多くの役職を歴任するなど、精力的に活動しています。メディアにも多く露出しているため、トークショーや書籍の出版などでその姿をみることができます。

いかがだったでしょうか。個人的には、この藩主表から「仙台藩の盛衰」が見えてくるような気がします。飢饉や藩主の度重なる早逝が災いして、幕末期には有力大名とは言い難い戦力しかもち合わせていなかったのでしょう。

宗家とは対象的に発展していった宇和島伊達家

さて、幕末にはかつての栄光を失っていた伊達宗家でしたが、それとは対象的に分家筋である宇和島伊達家は、江戸時代の後期に発展し、明治維新に大きな貢献をすることになります。そのため、ここでは主要な宇和島藩主を紹介し、なぜ宗家とは違った発展をすることができたのかを考察していきます。

小国でしかなかった宇和島藩が力をもつようになったきっかけは、七代藩主に宗紀が就任する19世紀初頭にあったとされています。困窮していた財政を立て直すために農学者を招聘し、殖産や金融の改善などによって財政基盤が固まりました。その後、宗紀は実に100歳になっても存命していたため、藩に助言を送り続けました。

八代藩主には宗紀の養子である宗城が就任し、養父の殖産興業路線を引き継ぎました。木蝋の専売や石炭の埋蔵調査などを実施し財政を健全化させると、高野長英や村田蔵六(大村益次郎)などを招聘し、西洋知識の吸収や軍政の近代化に着手しました。こうして着々と時代の流れに乗っていった宗城は、やがて松平春嶽・山内容堂・島津斉彬と並んで「四賢候」と称されるようになりました。

この成功には、伊達氏の血を継いでいたことが幸いしたという説もあります。これは、幕府に目をかけられていた伊達一門であったために、先進的な考えをもっていた江戸の知識人や他藩の有能な人物と接する機会が多かったためとされています。

このようにして、宇和島藩は明治維新に多大な貢献をしました。もちろん、伊達宗家や宇和島伊達家以外にも分家は数多く存在します。お笑い芸人の「サンドウィッチマン 伊達みきお」もこうした分家筋の出身であるとされており、今でも伊達の血は脈々と受け継がれているといっても過言ではないでしょう。


【主な参考文献】
  • 小林清治『戦国大名伊達氏の研究』高志書院、2008年。
  • 小林清治『伊達騒動と原田甲斐』吉川弘文館、2015年。etc…
【参考HP】
  • 「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」、講談社、2015年。



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