「長尾景春」主を恨むこと30年超え!? 諦めない男の生涯とは

 戦国時代に入る直前、関東ではすでに享徳の乱など大きな戦乱が幕を開けていました。鎌倉公方(後の古河公方)や関東管領上杉氏などがその中心にいたわけですが、その中で突如、自ら乱を起こし、さらに関東を混迷の渦に叩き込んだ人物が、長尾景春(ながお かげはる)でした。

 主だった山内上杉氏に反旗を翻し、30年以上を戦った彼は、なぜそんな戦いに身を投じたのでしょうか。

山内上杉家の家宰を務める家に生まれる

 景春は嘉吉3年(1443)、長尾景信の子として誕生しました。父・景信や「関東不双の案者」と謳われた祖父・景仲は、関東管領・山内上杉家の家宰を任された実力者。家宰とは、当主の代理として主家の一切を取り仕切る重要な役割で、非常に高い政治的影響力も有していました。

 景仲が13歳になった年、関東では古河公方・足利成氏による享徳の乱が勃発します。反・室町幕府を掲げて兵を挙げた成氏に対し、幕府方である主家・関東管領山内上杉氏に従い、少年だった景仲も参戦しました。

 その後、文明5年(1473)に父・景信が陣没すると、景仲は白井長尾家の当主となります。しかし、彼には山内上杉家の家宰という肩書きは回ってきませんでした。

長尾氏と上杉氏について

 ここでは、長尾氏と上杉氏について少し触れておきたいと思います。

 長尾氏には幾つかの系統があり、この頃は足利長尾氏、白井長尾氏、総社長尾氏、越後長尾氏などがそれぞれの領地で力を持っていました。景春の家は白井長尾氏です。越後長尾氏は、後に上杉謙信を輩出する越後守護代の家系となります。

 一方、上杉氏は山内上杉氏、扇谷上杉氏、越後上杉氏などに分かれていました。関東管領職をほぼ独占したのが山内上杉氏、太田道灌の出現により力を伸ばす扇谷上杉氏、越後守護を務め、上杉謙信が登場するのが越後上杉氏です。

山内上杉家宰となれず、屈辱を味わう

 代々家宰職を務めてきた我が白井長尾氏に、当然、家宰職も回ってくるはず…しかし、景春の期待は打ち砕かれました。主君である山内上杉家当主にして関東管領・上杉顕定には、ある考えがありました。

 というのも、代々白井長尾氏にばかり家宰を任せていては、彼らの力が強くなりすぎてしまうという懸念がずっとつきまとっていました。そして顕定は、景春の叔父で総社長尾氏当主である長尾忠景を家宰に指名したのです。

 重臣たちとの協議によってのことでしたから、何ら不当な人事ではありません。しかし、自分が家宰になると思っていた景春からすれば、青天の霹靂だったわけです。そしてすぐにその驚きは不満へと変わり、ついには主と叔父・忠景への憎しみにまで発展してしまったのでした。

景春、従兄弟・太田道灌に共闘を持ち掛ける

 上杉顕定に反乱を起こすことを決心した景春には、味方が必要でした。そこで彼が目をつけたのが、従兄弟であり、扇谷上杉家の家宰となっていた太田道灌です。

太田道灌の肖像画
太田道灌の肖像画

 有能の誉れ高い道灌を味方につければ…という思いがあったのでしょうが、これは断られてしまいます。しかし、それでも景春は止まるわけにはいきません。彼の胸に燃え始めた「主家憎し」の炎は、誰にも消すことができなくなっていました。景春は古河公方・足利成氏に対する上杉氏の最前線基地だった五十子陣を退去して鉢形城へと移り、明確に反抗の動きを見せ始めるのです。

 これに対し、太田道灌はすぐさま主である扇谷上杉氏当主・上杉定正と景春の主・上杉顕定に報告。懐柔策もしくは討伐を進言しましたが、両主君にあっさりと却下されます。彼らが享徳の乱の最中で足利成氏との戦に忙しかったことに加え、景春の力を見くびっていたためですが、この判断が、景春の蜂起のチャンスをさらに拡大することとなるのです。

長尾景春の乱

 文明8年(1476)、景春は鉢形城で反旗を翻しました。「長尾景春の乱」の勃発です。

 上杉顕定・定正には侮られていた景春ですが、家宰職を務めてきた白井長尾氏の力は、主君たちの予想をはるかに上回るものに成長しており、また、景春自身も若い頃から戦場を経験した勇猛な武将でした。

 翌年正月には、景春の軍勢は、足利成氏と交戦中だった上杉顕定・定正のいる五十子を急襲し、両者を大敗させることに成功。これを見た南関東の豪族たちの多くは景春に呼応し、戦況は当初の予想を大きく覆し、景春の勢いが強まることになったのです。

 しかし、景春の前に立ちはだかったのが、従兄弟・太田道灌です。道灌は、上杉顕定・定正と景春の仲介に奔走していましたが、上杉側と景春側の言い分がまったくかみ合わず、結局は決裂してしまったため、ついに自身が兵を率いて鎮圧に乗り出してきたのです。

 名将中の名将と言われる道灌の用兵は見事で、景春側に付いた豪族の城をすぐさま落城させると、顕定・定正と合流し、景春に奪われた五十子を奪い返します。続けて道灌らの軍勢は鉢形城を包囲し、景春は絶体絶命のピンチに陥ります。しかしそこに古河公方・足利成氏が大軍を率いて駆け付けたため、難を逃れることができました。

鎮圧されても再び「打倒・上杉顕定」を掲げる

 道灌の登場によってその勢いが完全に削がれることとなってしまった景春ですが、しばらくは足利成氏を頼ってその下で戦い続けました。

 しかし享徳の乱に疲弊した成氏と上杉氏との間で和睦の動きが出てくると、景春は戦いを続けることができなくなってしまいます。そして文明12年(1480)には道灌に敗れ、拠点の鉢形城などを追われることとなるのです。

 その後は成氏に仕えていたようですが、その間にも、景春の「打倒・上杉」の思いは消えることはありませんでした。のちに道灌が上杉定正によって暗殺されると、山内上杉家と扇谷上杉家との権力構図が揺らぎ、内紛となる「長享の乱」が勃発。景春はこの機を逃すはずもなく、ここで上杉定正に加担してまで、顕定と戦うというすさまじい執念を見せるのです。

 しかし、上杉定正が急死すると、彼に味方していた古河公方・足利政氏(成氏の子)は、顕定と和睦してしまいます。加えて、景春の実子・景英までもが政氏に同調し、戦を続けたい景春と対立してしまいます。

 実子の景英は白井長尾氏の当主として、顕定から認められるようになっていました。これ以後の数年間、景春は実の子とまで戦うことになったのです。

最後まで諦めを知らなかった男

 永正2年(1505)、扇谷上杉家が降伏して長享の乱が終結すると、景春の行き場はまたしても失われてしまいます。そして彼が選んだのは、何と、あの上杉顕定の下に出仕する道でした。

 ただそれでも諦めないのが、長尾景春という男。永正6年(1509)に、顕定が弟の越後守護・上杉房能の仇討ちのために越後へ出兵すると、景春はひそかに伊勢宗瑞や越後守護代・長尾為景らと結び、挙兵したのです。

 しかしこの挙兵はうまくいかず、甲斐へと亡命。その後も復帰を画策しますが、すでに力は残っていませんでした。永正9年(1512)に今川氏に亡命し、その2年後に72年の生涯を終えました。

 家宰となれなかった屈辱を胸に、30年以上の長きに渡って戦いを挑み続けた執念はすさまじいものがありますね。ある意味、「諦めない心」がどれほど人を駆り立てるのか、教えてもらったような気がします。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
xiao さん

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