「長尾景春」主を恨むこと30年超え。諦めない男の生涯とは
- 2019/05/15
戦国時代に入る直前、関東ではすでに享徳の乱など大きな戦乱が幕を開けていました。鎌倉公方(後の古河公方)や関東管領上杉氏などがその中心にいたわけですが、その中で突如、自ら乱を起こし、さらに関東を混迷の渦に叩き込んだ人物が、長尾景春(ながお かげはる)でした。
主だった山内上杉氏に反旗を翻し、30年以上を戦った彼は、いったいなぜそんな戦いに身を投じたのでしょうか。
主だった山内上杉氏に反旗を翻し、30年以上を戦った彼は、いったいなぜそんな戦いに身を投じたのでしょうか。
【目次】
山内上杉家の家宰を務める家に生まれる
嘉吉3(1443)年、景春は長尾景信の子として誕生しました。父・景信や「関東不双の案者」と謳われた祖父・景仲は、関東管領・山内上杉家の家宰を任された実力者。家宰とは、当主の代理として主家の一切を取り仕切る重要な役割で、非常に高い政治的影響力も有していました。
景仲が13歳になった年、関東では古河公方・足利成氏による享徳の乱が勃発します。反・室町幕府を掲げて兵を挙げた成氏に対し、幕府方である主家・関東管領山内上杉氏に従い、少年だった景仲も参戦しました。
その後、文明5(1473)年に父・景信が陣没すると、景仲は白井長尾家の当主となります。しかし、彼には山内上杉家の家宰という肩書きは回ってきませんでした。
長尾氏と上杉氏について
ここでは、長尾氏と上杉氏について少し触れておきたいと思います。長尾氏には幾つかの系統があり、この頃は足利長尾氏、白井長尾氏、総社長尾氏、越後長尾氏などがそれぞれの領地で力を持っていました。景春の家は白井長尾氏です。越後長尾氏は、後に上杉謙信を輩出する越後守護代の家系となります。
一方、上杉氏は山内上杉氏、扇谷上杉氏、越後上杉氏などに分かれていました。関東管領職をほぼ独占したのが山内上杉氏、太田道灌の出現により力を伸ばす扇谷上杉氏、越後守護を務め、上杉謙信が登場するのが越後上杉氏となります。
山内上杉家宰となれず、屈辱を味わう
代々家宰職を務めてきた我が白井長尾氏に、当然、家宰職も回ってくるはず…しかし、景春の期待は打ち砕かれました。主君である山内上杉家当主にして関東管領・上杉顕定には、ある考えがあったのです。というのも、代々白井長尾氏にばかり家宰を任せていては、彼らの力が強くなりすぎてしまうという懸念がずっとつきまとっていました。そして顕定は、景春の叔父で総社長尾氏当主である長尾忠景を家宰に指名したのです。
重臣たちとの協議によってのことでしたから、何ら不当な人事ではありませんでした。しかし、自分が家宰になると思っていた景春からすれば、青天の霹靂だったわけです。そしてすぐにその驚きは不満へと変わり、ついには主と叔父・忠景への憎しみにまで発展してしまったのでした。
景春、従兄弟・太田道灌に共闘を持ち掛ける
上杉顕定に反乱を起こすことを決心した景春には、味方が必要でした。そこで彼が目をつけたのが、従兄弟であり扇谷上杉家の家宰となっていた太田道灌です。有能の誉れ高い道灌を味方につければ…という思いがあったのでしょうが、これは断られてしまいました。しかし、それでも景春は止まるわけにはいきませんでした。
彼の胸に燃え始めた「主家憎し」の炎は、誰にも消すことができなくなっていたのです。そして彼は、古河公方足利成氏に対する上杉氏の最前線基地だった五十子陣を退去して鉢形城へと移り、明確に反抗の動きを見せ始めたのでした。
これに対し、太田道灌はすぐさま主である扇谷上杉氏当主・上杉定正と景春の主・上杉顕定に報告し、懐柔策もしくは討伐を進言しましたが、享徳の乱の最中で足利成氏との戦に忙しい両主君はあっさりとそれを却下。彼らが景春の力を見くびっていたためですが、この判断が、景春の蜂起のチャンスをさらに拡大することとなったのです。
長尾景春の乱
そして文明8(1476)年、景春は鉢形城で反旗を翻しました。長尾景春の乱の勃発です。上杉顕定・定正には侮られていた景春ですが、家宰職を務めてきた白井長尾氏の力は、主君たちの予想をはるかに上回るものに成長していました。また、景春自身も若い頃から戦場を経験した勇猛な武将だったのです。
文明9(1477)年正月には、景春の軍勢は、足利成氏と交戦中だった上杉顕定・定正のいる五十子を急襲し、両者を大敗させることに成功しました。これを見た南関東の豪族たちの多くは景春に呼応し、戦況は当初の予想を大きく覆し、景春の勢いが強まることになったのです。
しかし、景春の前に立ちはだかったのは、従兄弟・太田道灌でした。
道灌は、上杉顕定・定正と景春の仲介に奔走していましたが、上杉側と景春側の言い分がまったくかみ合わず、結局決裂してしまったため、ついに自身が兵を率いて鎮圧に乗り出してきたのです。
名将中の名将と言われる道灌の用兵は見事で、景春側に付いた豪族の城をすぐさま落城させると、顕定・定正と合流し、景春に奪われた五十子を奪い返してみせたのでした。
そのまま、景春は鉢形城にて道灌や顕定・定正らの軍勢に包囲され、絶体絶命のピンチに陥ります。しかしそこに古河公方・足利成氏が大軍を率いて駆け付け、難を逃れることができました。ただ、道灌によって、景春の勢いは完全に削がれることとなってしまったのです。
鎮圧されても再び「打倒・上杉顕定」を掲げる
足利成氏を頼り、しばらくその下で戦い続けた景春ですが、やがて享徳の乱に疲弊した成氏と上杉氏との間で和睦の動きが出てくると、彼は戦いを続けることができなくなってしまいました。そして文明12(1480)年には道灌に敗れ、拠点の鉢形城などを追われることとなります。その後は成氏に仕えていたようですが、その間にも、景春の「打倒・上杉」の思いは消えることはありませんでした。やがて、道灌が上杉定正によって暗殺されると、山内上杉家と扇谷上杉家との権力構図が揺らぎ、内紛となる「長享の乱」が発生します。
景春がこの機を逃すはずはありません。とにかく上杉顕定が憎い彼は、なんとここで上杉定正に付き、顕定と戦うというすさまじい執念を見せました。
しかし、上杉定正が急死すると、彼に味方していた古河公方・足利政氏(成氏の子)は、顕定と和睦してしまいます。加えて、景春の実子・景英までもが政氏に同調し、戦を続けたい景春と対立してしまいました。景英は顕定から白井長尾氏の当主として認められるようになっており、これ以後数年、景春は実の子とまで戦うことになったのです。
最後まで諦めを知らなかった男
永正2(1505)年、扇谷上杉家が降伏して長享の乱が終結すると、景春の行き場はまたしても失われてしまいました。そして彼が選んだのは、何と、あの上杉顕定の下に出仕する道だったのです。ただそれでも諦めないのが、長尾景春という男。
永正6(1509)年に、顕定が弟である越後守護・上杉房能の仇討ちのために越後へ出兵すると、景春はひそかに伊勢宗瑞や越後守護代・長尾為景らと結び、挙兵したのです。
しかしこの挙兵は結局うまくいかず、甲斐へと亡命。その後も復帰を画策しますが、すでに彼に力は残っていませんでした。永正9(1512)年に今川氏に亡命した彼は、その2年後に72年の生涯を終えたのです。
家宰となれなかった屈辱を胸に、30年以上の長きに渡って戦いを挑み続けた彼の執念はすさまじいものでした。ある意味、「諦めない心」がどれほど人を駆り立てるのか、教えてもらった気がします。
【主な参考文献】
- 則竹雄一『動乱の東国史6 古河公方と伊勢宗瑞』(吉川弘文館、2012年)
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