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日露戦争を勝利に導いた高橋是清の金策

高橋是清(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
高橋是清(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

高橋是清とはどんな人物?

 高橋是清(たかはし これきよ)は嘉永7年(1854)、幕府御用絵師であった川村庄右衛門の家に生まれ、その後、仙台藩の足軽だった高橋家の養子となります。そして様々な役職で活躍した後、明治44年(1911)には日銀総裁に就任。大正10年(1921)には、暗殺された原敬の後を継いで、首相及び政友会総裁となりました。

 日本にはなくてはならない人材でありながら、昭和11年(1936)に勃発した二二六事件において暗殺されたのです。

奴隷に売られたという異色の経験も…

 高橋是清は、まさに波乱万丈の人生を送った人でした。13歳の時に、藩名によりアメリカに渡り、そこで騙されてなんと奴隷といて売られてしまうのです。それにより、アメリカ国内を転々とすることになるのですが、その後なんとか解放されて自由になり日本に帰国できたのです。

 帰国後、文部省に入省し、その後共立学校(現在の開成高校)の校長となり、英語を教えます。教え子の中には、正岡子規や日露戦争で連合艦隊司令長官東郷平八郎の下で作戦担当参謀となった秋山真之らといったそうそうたる人たちが大勢いました。

日露戦争前は金欠だった日本

 高橋是清が日銀副総裁だった頃に日露戦争が勃発します。開戦をするとは言っても、日本にはそれほどの戦費もなく困り果てるのでした。

 そこで高橋是清は、イギリスに渡り、500万ポンドの外債を受け入れるよう依頼をします。そして、この戦争において日本は最後の一人まで戦い抜く覚悟であり、支払いは関税を持って行うと説明。何年かかっても支払うと約束するのです。そして実際に完済したのは82年後の昭和62年でした。

 何があっても約束を守る、日本人の凄さがわかりますね。しかし、それでもまだ金額は不足していたので、高橋是清は次にアメリカに渡りユダヤ人資本家であり銀行家と信頼関係を結びます。

 その筋から、ニューヨークの金融業界から更に500万ポンドの資金調達に成功。この資金があったからこそ、見事に日露戦争に勝利することができたのです。

その後の経済危機も見事に乗り切る

 その後、貴族院議員・日銀総裁・大蔵大臣・総理大臣と歴任して、地位を得てきた高橋是清ですが、大蔵大臣時代に非常事態が起こります。

 1927年に金融恐慌が勃発した際には、支払猶予令を施行して恐慌を沈静化させました。4年後の1931年には、思い切って金輸出再禁止を断交。大量の国債を発行して景気調整政策を導入したのです。それが功を奏して、見事に世界で最初に金融恐慌からの脱出に成功したのでした。

 次々と経済危機を乗り越えていった高橋是清でしたが、軍部の軍事費拡大の要求を抑えたために、二二六事件において青年将校によって暗殺されることになったのです。このとき昭和天皇は、高橋是清が暗殺されたことを知って、激怒したといいます。それだけこれからの日本には、欠かせない重要人物だったということでしょう。

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  この記事を書いた人
五百井飛鳥 さん
聖徳太子に縁のある一族の末裔とか。ベトナムのホーチミンに移住して早十数年。現在、愛犬コロンと二人ぼっちライフをエンジョイ中。本業だった建築設計から離れ、現在ライター&ガイド業でなんとか生活中。20年ほど前に男性から女性に移行し、そして今は自分という性別で生きてます。ベトナムに来てから自律神経異常もき ...

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