武家の男子の成人式「元服」。その作法、年齢は?

古くから成人の儀式としてあった元服。今の成人(20歳)とは違い、10代で大人とみなされていました。時代劇などでよく元服シーンがありますが、具体的な作法はあまり描かれませんよね。実際の元服とはどのような内容なのか、戦国時代の武家の儀式を紹介してみましょう。

元服とは

元服とは男子の成人の儀式のことを指します。日本では奈良時代からある通過儀礼ですね。女子の場合は「裳着(もぎ)」と呼ばれる成人の儀式があります。

元服はもともと冠を着ける儀式でした。「元」の字には頭の意味もあり、「服」とは身に着けること。そのまま頭に冠を着用することを意味しました。

古い時代には「冠位十二階」なんていう制度もありましたね。朝廷に使える貴族にとって冠は身分を表す大事なアイテムです。

冠位十二階の制度は廃れますが、その後も貴族にとって冠とは衣服以上に大事なもの。元服は「初冠(ういこうぶり)」「加冠」とも呼ばれます。冠を着用せず頭髪をあらわにするのはふんどし姿をさらすような行為でした。

それほど、成人した男子にとって冠は大切な身だしなみのひとつ。室町以降、武家社会になっても、元服では烏帽子をかぶります。主君(烏帽子親)から諱を賜り、烏帽子をかぶせてもらう儀式なのです。

元服の儀式の内容

室町時代の元服を見てみると、元服に際して6つの役割があることがわかります。具体的な内容をその役割に分けて説明しましょう。

加冠の役

加冠の役は、烏帽子をかぶせる者、いわゆる「烏帽子親」です。これは元服の儀式のなかで最も重要な役割。いわば後見人のような立場で、義理の親子の契りを結ぶ儀式でもありました。

一般の武家では家臣の中の重要人物や、親類の中から選ぶ。もしくは実父自らが引き受けることもありました。義理の親子関係を結ぶ意味合いもあるため、烏帽子親を時の権力者に引き受けてもらうことができればその後の出世も望める、ということもあります。

理髪の役

髪を結う役目です。元服の前後で一番見た目の変化として表れるものですね。元服を「髪上げの儀」とも呼びました。
古くは「みづら」という顔の左右で結う髪型が男児のスタイルで、そこから髪をひとつに結って冠をかぶると大人のスタイルになりました。戦国時代ごろの男児はポニーテールのようなスタイルで、前髪があります。元服する際は髷に結い、月代を作るようになります。理髪の役は童子の髪を切り、紙に包みます。

烏帽子の役

烏帽子親とは別に烏帽子を持つ役目で、これは理髪の役が担いました。

泔杯の役

「泔坏(ゆするつき)」とは、髪を整えるために使用する米のとぎ汁を入れる容器のことです。理髪する際にこれを扱うものをそう呼びました。

打乱箱の役

「打乱(うちみだり)箱」とは、理髪で落とした童子の髪を収納する箱のことです。これを扱う役割もありました。

鏡台并鏡の役

鏡台を扱う者の役目です。

幼名から諱へ

元服で重要なのは烏帽子をかぶり髷を結うことだけではありません。武士は大人になる証として、諱(いみな)を賜ります。

諱とは現代の感覚でいうと、例えば「山田太郎」の「太郎」、ファーストネームにあたります。「信長」や「家康」などが諱です。この教科書に載っている武将の名は、元服の時点で初めてもらうものなのです。

ただ、本来諱とはみだりに呼ぶものではありません。時代劇では「家康様」などと諱に敬称をつけて呼びますが、これは本来ありえないことです。通常親か主君しか呼ぶことは許されませんでした。

「諱」=「忌み名」であり、口にしてはならない名前。本名はその人物と霊的なつながりを持ち、それを呼ぶと霊的人格を支配すると考えられていました。そういう意味からも、諱を授けるのは主君であることが多かったと考えられます。

例えば徳川家康の元服時の諱は「元康」でしたが、主家であった今川氏と決別する際に「家康」と名を改めていますね。今川家の人質となっていた家康(竹千代)の烏帽子親は今川義元でした。義元の「元」の字を賜っていたわけです。元服の際に主君の名や将軍の名から一字を賜ることは多くありました。

義元は自ら烏帽子親を買って出るほど家康をかわいがっており、親子に近い間柄であったことがうかがえます。家康は、義理の親子としての絆、そして支配される意味合いもある「元」の字を捨て、関係を断ち切ったのです。

元服時にもらう諱には、それだけ力関係があったことがうかがえます。

元服する年齢は?

元服の年齢はまちまちでした。

信長は13歳、家康は15歳で元服していますが、中には10歳に満たない年齢で元服する例もあります。家康の子・義直はわずか7歳で元服しています。

武家社会では下は5歳から、上は20歳超までと、元服の年齢はとくに定めがなく、バラバラであったことがわかります。家の都合や戦の有無など、元服に適したタイミングを待ったり、逆に早めたりすることがあったためです。

まとめ

もともと朝廷に仕える貴族社会の通過儀礼であった元服は、室町以降になると民間にも広まっていきました。ただ、武家社会以外では烏帽子をつけることはせず、前髪をそって月代を作る程度に簡略化されていたようですね。

近世以降になると、武家社会でも烏帽子の着用が省略され、公家だけの作法となります。


【参考文献】
  • 西ヶ谷恭弘『戦国の風景 暮らしと合戦』(東京堂出版、2015年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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