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京都の住所にない不思議スポット・西陣

京都市上京区にある西陣地区、中心地・大黒町の石畳通り(出典:wikipedia)
京都市上京区にある西陣地区、中心地・大黒町の石畳通り(出典:wikipedia)
 京都の通り名の唄をご存知でしょうか?「まる たけ えびす に おし おいけ~」が出だしとなる歌で、小耳に挟んだことのある方も多いのでは。整然と碁盤の目のように区画された京都の地理を覚えるなら、通り名を把握するのが一番でしょう。

 この「丸竹夷」は東西の通りを歌っているのですが、南北編もあるんですよ。南北編は通り名をどんどんと西に向かっていき、ラストが「はてはにしじん」で終わります。実はこの最後の「西陣」ですが、ここだけは通り名ではありません。それだけ西陣は京都を代表する地名であるということを示しているのでしょう。

西陣ってどこ?

 一般に「西陣」と聞くと、思い浮かぶのが西陣織でしょう。高級織物の代名詞にもなっている西陣織は、長らく京都の基幹産業として栄えるとともに長きにわたり、京都の基盤産業として栄えてきました。

 織物としても地名としても京都には欠かせない西陣なのですが、実は京都の住所を全部チェックしても西陣という名は見つからないのです。

 祗園や嵐山といった京都に存在するその他の有名な地名の場合、しっかりとその名前が入った住所があるのですが、西陣はないんですよね。西陣という名は単なる俗称だったのかというとそうでもなさそう。ごく最近まで存在していた「西陣警察署」や、さらには「西陣郵便局」もあって、正式な名前としても使用される、なんとも不思議な地名なんです。

名前の由来

 西陣という名はかなり昔からあったようで、応仁の乱(1467~77)の頃に作られた名前のようです。

 応仁の乱は、室町幕府の次期将軍の座を巡って勃発し、そこに大物守護大名の細川氏と山名氏が介入したことで、東軍と西軍に分かれての戦いとなり、全国に拡大しました。そのとき西軍の総大将だった山名氏が本陣を置いたのが、現在の堀川通今出川を北上したあたりです。つまり、西軍の陣があった場所で、西陣が誕生することになるのです。現在でも、山名町として残っているんですよ。

 平安時代の末期、この周辺には織物の役所が置かれていました。応仁の乱のときに、職人たちは一斉に大坂の堺あたりに避難します。そして乱もおさまって職人たちがこの西陣に戻った際、ここで作られる織物を西陣織と呼ぶようになったのです。

 京都を代表する一大産業に発展した西陣織。最盛期には一日千両の売上があったとか。そこから千両ヶ辻という名も付いたそうです。

町名から見ると…

 現在の京都の街並みは、豊臣秀吉によって造られたとされています。洛中の中心に聚楽第を造り、その周辺に大名屋敷が配置されていました。実はこの聚楽第、位置的に見るとほぼ西陣エリアと重なっているんです。このエリアにある町名から、屋敷のあった大名が分かるんですよ。

 たとえば「如水町」は、黒田官兵衛の法名となった黒田如水から。「高台院町」は秀吉の妻である寧々の屋敷があった場所で、彼女の法名が高台院でした。他にも福島正則の屋敷があった「福島町」、宇喜多直家にちなんだ「直家町」に、蒲生飛騨守氏郷の「飛弾殿町」などなど。至るところに大名にちなんだ町名が見られます。

 そして西陣に関わりのあるのが、糸屋町で西陣織に用いる糸の商家が多かったエリアになります。紋屋町には、紋織を発明した織屋がいたことが由来です。紋屋町には、現在に残る唯一の織元「三上家」路地があることでも有名。その昔、職人たちが住んでいた長屋は、現在では、築130年というレトロな佇まいに浸れる人気観光スポットなんです。今は陶芸家や写真家の住居も多く、独特の雰囲気に溢れています。

素晴らしきかな西陣

 上京区を代表するスポットの一つとなる西陣、古き良き京都が残る場所ですね。西陣という街そしてそこに根付く西陣織は、京都文化そのものであり京都が誇るべき財産だと言えるでしょう。

 西陣は、いつまでも変わることのない不変的なものごとを大切にし、更に新しい変化も取り入れられる素晴らしい街なんですよ。

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  この記事を書いた人
五百井飛鳥 さん
聖徳太子に縁のある一族の末裔とか。ベトナムのホーチミンに移住して早十数年。現在、愛犬コロンと二人ぼっちライフをエンジョイ中。本業だった建築設計から離れ、現在ライター&ガイド業でなんとか生活中。20年ほど前に男性から女性に移行し、そして今は自分という性別で生きてます。ベトナムに来てから自律神経異常もき ...

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