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人間魚雷「回天」 命を捨てる覚悟をした若者たち

Honestpencil
 2022/09/22
山口県の阿多田交流館前にある実物大レプリカの「回天」
山口県の阿多田交流館前にある実物大レプリカの「回天」
太平洋戦争中の特攻といえば、飛行機に爆弾を積んで敵艦船に体当たりする空からの攻撃を誰もが思い浮かべるでしょう。しかし海からの特攻もありました。代表的なのは爆弾を搭載した魚雷に乗り込み、海中で操縦しながら敵艦船へ突っ込む人間魚雷「回天」です。死を定められた若い搭乗員たちは、回天とともに海に散っていきました。

必死の特攻兵器の誕生

人間魚雷は太平洋戦争に従軍した複数の海軍士官が発想し、昭和18(1943)年から軍の上層部にそれぞれ実現を具申していました。そのころの日本はミッドウェー海戦で空母4隻や多くの戦闘機を失った後、さらにガダルカナル島での撤退など形勢が敗色へと大きく傾いていた時期でした。

戦況を何とか好転させたいと願う兵士たちは、起死回生の新兵器の開発を真剣に考えたのでしょう。しかし当時の日本海軍は決死隊は認めても生還することのできない兵器は認めないという伝統があり、必死の人間魚雷構想は却下され続けていたのです。

翌19年になると戦局はますます悪化、海軍当局も人間魚雷を認めざるを得ない状況に追い込まれ、黒木博司大尉と仁科関夫中尉が協力して作り上げた構想を承認しました。脱出装置を付けることが条件でしたが、2人は「性能が著しく落ちる」と強く反対し同年8月1日、新兵器としての採用が認められました。同時に幕末の江戸幕府の軍艦「回天丸」から取って「回天」という名称も決まったのです。

「天を回(めぐ)らし戦局を逆転する」という願いの込められた人間魚雷は全長14・75㍍、胴体直径1㍍の1人乗り。普通の魚雷の5本分に当たる1・55㌧の炸薬を先端部分に搭載し、潜水艦から発射されて敵艦に体当たり攻撃を仕掛ける特攻兵器です。

回天は潜水艦のデッキにバンドで固定され、出撃する搭乗員には電話機で目標艦船の進路、速度等の情報が伝えられます。そして射角表を用いてジャイロコンパスで進行方向を決定、目標近くまで潜行して進みます。
予測した距離まで近づいたら浮上し、水防眼鏡で目標艦船を確認して進行角度を修正。目標艦船の船底から水面までの垂直距離(喫水)を推測し、その深さに合わせて再度潜行し全速力で突っ込みます。体当たりに失敗しても回収されることはなく、脱出装置がないため出撃した搭乗員は2度と帰ってくることの叶わない兵器でした。

常に死と隣り合わせの訓練

昭和19年9月、訓練は山口県の大津島基地で始まりました。その後、搭乗員が増えたため同じ山口県の光基地、平生基地、大分県大神基地が開隊、最終的に訓練を受けた兵士は海軍兵学校や予備学生、予科練生など1375人を数えます。

回天搭乗員の募集は突然でした。茨城県・土浦海軍航空隊の場合、19年8月に甲種飛行予科練生約1500人に非常召集がかかり、格納庫に集められたそうです。重苦しい空気が漂う中、司令は新兵器が開発された旨を説明し「この兵器に乗って戦闘に参加したい者は後から配る紙に熱望なら二重丸、どちらでもよい者はただの丸を書いて提出しろ。ただし生還はできない兵器である」と伝えました。ほとんどの練習生が二重丸を書いて提出し、翌日には100人が選ばれたということでした。

そのころは既に米軍との航空戦でも劣勢となり、戦闘機も残り少なくなっていたはずです。パイロットを夢見ていた練習生たちは大空へのあこがれを断ち切り、全員が気持ちを切り替えて新たな任務に就いたに違いありません。

訓練は常に死と隣り合わせでした。訓練開始2日目の9月6日、回天を考案した黒木大尉は樋口孝大尉とともに遭難、海底に沈んだ艇の中で翌日発見され、引き上げられた時には既に死亡していました。
海底に沈む事故はその後も度々あり、殉職者も後を絶ちませんでした。操縦席は非常に狭く、右足は曲げたまま、左足はやっと伸ばせる程度です。背の高い人や足の長い人、座高の高い人は搭乗員には向かないといわれていました。ウイスキーや乾パン、チョコレートなど非常食の入ったアルミパックが備えられ、トイレはなくビール瓶に用を足したそうです。

訓練で操縦席に腰を下ろし、ハッチを閉めた瞬間、血の気が引いてすさまじい恐怖と孤独が襲ってきたと、生き残った多くの搭乗員が語っています。暗い艇内はとても油臭く、豆ランプの小さな明かりだけが浮かび上がり、彼らは死にもの狂いで訓練に集中しました。

ちなみに大津島で訓練を受けていた回天搭乗員は基本給に加えて下士官で90円、士官で180円の危険加俸がついたそうです。当時の大卒サラリーマンの月給が80円程度だったのでかなり高給と言えますが、いくら高くとも命に値段はつけられるものではありません。

大切な家族と日本を守るために

回天の最初の出撃は昭和19年11月でした。選抜された12人が「菊水隊」として3隻の潜水艦に乗り込み、大津島を離れました。隊員の中には訓練中に殉職した黒木大尉とともに回天を考案した仁科中尉も含まれていました。

11月20日、目的地の西カロリン諸島ウルシーで出撃した回天1基は米艦隊のタンカー「ミシンネワ」に命中、沈没させました。その後も昭和20年8月8日までに延べ153人が出撃、80人が戦死しています。ミシンネワを含む兵員揚陸船、護衛駆逐艦の計3隻を撃沈、大型駆逐艦など4隻に損傷を与える戦果を上げました。

目標が定まり覚悟を決めて回天に乗り込んでも装置の故障などで出撃できず、やむなく基地へ帰還した搭乗員も多くいました。帰ってくると労をねぎらい励まされることがほとんどでしたが、中には卑怯者呼ばわりする隊員もいたということで、彼らは肩身の狭い思いをしながら再出撃の直訴を繰り返したそうです。

一方で昭和20年に入ると、米軍による日本本土への攻撃と上陸に備えるため国内各地に「基地回天隊」が開設されました。敵艦隊が侵攻する地域を予想して付近沿岸に回天の格納壕を構築し、攻撃を仕掛けるという目的です。

八丈島の第二回天隊隊長として着任が決まった小灘利春中尉は「命令を受けて歓喜の衝撃がズンと一気に突き上げた。それは強烈な喜びであった」と振り返っています。さらに「回天によって日本を護ることに、私たちは喜びを感じていた。この気持ちは、回天部隊搭乗員に共通の、率直で自然の感情であった」とも語っています。

宮崎県の油津に開設された第三回天隊の隊長だった帖佐裕大尉は、軍歌「同期の桜」の作詞者といわれています。毎日のように電信室に顔を出し、戦況を見守りながら出撃の時を待っていました。ある時、親しくなった電信員に「僕はね、おっかさーんと叫んで突っ込むよ」と言ったそうです。大切な家族と日本を守るため、多くの若者が命を捨てる覚悟をしていたのです。

攻撃目標の米艦隊は日本本土沿岸に姿を見せることなく終戦を迎えました。国内15カ所に設けられた回天基地からの出撃も一度もありませんでした。

あとがき

国内の回天基地に配属された回天搭乗員が戦後打ち明けた話があります。彼は大津島での訓練を終え、選抜されたひとりでした。出発前夜の壮行会で、上官や仲間から「頑張ってこい」と激励を受けたそうです。

宴の途中で席を立つと、用を足したくもないのに便所に入りました。

「情けないと思われるかもしれませんが、実は泣いたんです。感情を抑えられなくなって…。頑張ってこいと励まされましたが、それは立派に死ねということですからね」

回天搭乗員は守るべき人や国のために命をささげる覚悟があったと思います。しかし、その境地にたどり着くまでには、恐怖と悲しみを乗り越えるための自分との闘いがあったことを知りました。

※主な参考文献
 小灘利春・片岡紀明「特攻回天戦」(光人社、2006年)
 宮本雅史「回天の群像」(角川学芸出版、2008年)
 宮崎日日新聞連載「回天のあった海」(2005年)
 周南市回天記念館HP

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