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長野県歌「信濃の国」に登場する唯一の戦国武将って誰?

マイケルオズ
 2023/01/13
長野県の県歌「信濃の国」は、長野県民のほとんどが口ずさめる愛唱歌で、軽快なテンポに乗った七五調の歌詞には、長野県が誇る豊かな自然、文化、産業、歴史が歌われています。その5番の歌詞に信州が生んだ偉人が登場しますが、戦国武将が一人だけ含まれているのをご存知でしょうか。

その名は「仁科五郎盛信」です。

信濃の国に登場する4人の偉人

県歌「信濃の国」は、明治32(1899)年に長野県師範学校の教諭だった浅井洌(きよし)が作詞し、翌明治33(1900)年に北村季晴(すえはる)が作曲。同年に師範学校の運動会で披露されたのが始まりだったそうです。

偉人が登場する歌詞は5番で、このように歌われています。

「旭将軍義仲も 仁科の五郎信盛も 春台太宰先生も 象山佐久間先生も 皆この国の人にして 文武の誉たぐいなく 山とそびえて世に仰ぎ 川と流れて名はつきず」
※県歌「信濃の国」

歌詞で紹介されている偉人は、源平合戦で活躍した木曽義仲(源義仲)、江戸時代の儒学者で経済学を学問として位置付けた太宰春台、幕末の志士たちの思想的指導者だった佐久間象山。そして唯一の戦国武将として仁科五郎盛信が出てきます。

ちなみに、歌詞では「信盛」と歌われていますが、「盛信」が正しいとされています。ただ、浅井洌が作詞した明治時代は、両方の名前で呼ばれていたといい、長野県は「元作詞を尊重したい」との見解だそうです。このコラムでは「盛信」に統一します。

仁科五郎盛信とは

盛信の生年は分かっていませんが、武田信玄の5男として生まれました。兄で武田家を継いだ勝頼とは異母兄弟となります。信濃の名門・仁科氏を継いだことで、仁科盛信と名乗るようになったのです。

仁科盛信の肖像(出典:wikipedia)
仁科盛信の肖像(出典:wikipedia)

仁科氏は長野県北部に領地があったため、盛信は越後の上杉氏への対応として、国境を守る役目を果たしていたようです。

天正9(1581)年頃には、織田氏や徳川氏との抗争が激しさを増してきたことを受け、勝頼の本国・甲斐への西の玄関口となる高遠城を任されます。高遠城は最重要拠点でもあり、盛信に対し、勝頼が絶大な信頼を持っていたことをうかがわせます。

高遠城の戦いで壮絶に散る

天正10(1582)年、織田信長は武田討伐を決断し、嫡男の信忠を総大将に大軍勢を信濃方面へと進軍させます。迎え撃つ武田氏は、親族の木曽義昌や穴山梅雪ら多くの離反者が出てしまい、徐々に劣勢へと追い込まれていくのです。

同年3月、信忠は高遠城まで進軍し、大軍で城を取り囲みます。この時、すでに勝頼は甲斐へ退いており、高遠城は孤立無援の状況でした。信忠は、城主の盛信に降伏して城を明け渡すよう迫りましたが、盛信は受け入れません。ついに信忠は総攻めを開始します。盛信はじめ城兵たちは激しく抵抗しますが、多勢に無勢で城は陥落してしまうのです。自刃した盛信は20代半ばだったと伝わっています。

高遠城の戦いについて信長公記は「(勝頼は)名城である高遠城に屈強の武士を入れていたにもかかわらず、信忠が一気に攻め落とした」と、あえて記しています。この戦いが織田氏にとって激戦であり、武田氏攻略の最後の関門だったことを裏付けています。

おわりに

信州ゆかりの戦国武将といえば、真田昌幸や幸村を思い浮かべる人が多いと思いますが、浅井洌は仁科五郎盛信を歌詞に入れました。その真意は本人でなければ分かりませんが、「信濃の国」で盛信が歌われることの意味を私なりに考えてみました。

盛信は、親族や重臣に次々と裏切られた武田勝頼を最後まで支え続けた「信義の人」でした。そして、戦国最強とまで言われた武田軍団のプライドを守り、織田の大軍を相手に壮絶に戦って散った「潔さ」が、今も信州人の心をつかんでいるのではないでしょうか。

  この記事を書いた人
マイケルオズ さん
フリーランスでライターをやっています。歴女ではなく、レキダン(歴男)オヤジです! 戦国と幕末・維新が好きですが、古代、源平、南北朝、江戸、近代と、どの時代でも興味津々。 愛好者目線で、時には大胆な思い入れも交えながら、歴史コラムを書いていきたいと思います。

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