※ この記事はユーザー投稿です

徳川秀忠の隠し子だった保科正之を救った育ての父と母

2代将軍徳川秀忠の子・保科正之(ほしな まさゆき)は、江戸時代前半期に4代将軍徳川家綱の後見役として幕府を支えるとともに、会津松平家の藩祖として、幕末まで徳川家を守り抜く家風を培った名君として知られています。しかし、生まれてからの前半生は危機と苦労の連続だったといいます。

そんな正之を支えてきたのが、育ての母である見性院(けんしょういん。武田信玄の次女)と、養父の保科正光(ほしな まさみつ)でした。

正之出生の秘密

保科正之は慶長16年(1611)、徳川秀忠の子として生まれました。秀忠の正室は、浅井長政と信長の妹・お市の娘である江ですが、正之は江の子ではありません。

江は、たいへん嫉妬深い女性だったと言われ、正之の母は側室としてすら扱われず、江をはばかって実家に戻って正之を生んだとされています。正之の出生は、異母兄である家光(のちの3代将軍)にすら知らされていませんでした。

江には家光と忠長という男子がおり、相続争いの火種になりかねない正之の存在を、江には隠し通さねばなりません。そこで幕閣の計らいにより、育ての母として正之を預かったのが見性院でした。

育ての母だった見性院

見性院は武田信玄の娘で、親族である穴山梅雪に嫁いでいました。武田勝頼の代となり、武田家が徳川家と対立するようになると、勝頼の力量を見限った梅雪は徳川家康の元にはせ参じ、武田家を裏切ってしまうのです。

梅雪は、本能寺の変で家康が命からがら逃げ帰った「神君伊賀越え」の際、別行動をしていて殺されてしまいます。家康は、梅雪嫡男の勝千代に武田家を継がせ、勝千代の死後は自身の五男である信吉を武田家当主に据えるのです。

見性院は、信玄の娘という血筋から、信吉を後見する立場となります。信吉が慶長8年(1603)に早世し、家康が立てた武田家は断絶してしまいますが、その後も家康に庇護されながら暮らしていたといいます。

そして見性院に、正之の養育という役目が巡ってきたのです。三つ子の魂百までと言いますが、後に家光が絶大な信頼を寄せる実直な人物になったのは、見性院の養育のたまものだったのではないでしょうか。

正之を養子にした保科正光

将軍家の生まれである正之をこのまま自分の元で育て続けてはいけないと思った見性院は、かつて武田家の家臣だった大名・保科正光に養育を委ねようと思い立ちます。

保科正光の肖像(建福寺所蔵。出典:wikipedia)
保科正光の肖像(建福寺所蔵。出典:wikipedia)

保科家は代々、武田家に仕えていた家ですが、勝頼の滅亡後には家康の家臣として、正光は数々の戦いに従軍。関ケ原の合戦後に、武田家ともゆかりの深い信州の高遠藩2万5千石の藩主となりました。

公には伏せられているとはいえ、将軍の子を養育するわけですから、正光にとっても名誉なことだったと思われます。それに加え、恩義のある武田信玄の娘(見性院)から頼まれれば、嫌とは言えなかったでしょう。

やがて正光は、養子となった正之に保科家を相続させ、正之は小藩ながらも晴れて大名となりました。江は、すでにこの世にはなく、誰はばかることなく父の秀忠や兄の家光との対面が実現したのです。

おわりに

3代将軍徳川家光は、異母弟の保科正之を引き立て、山形20万石を経て、当時東北地方の玄関口だった会津23万石の大名に抜擢します。家光の死後は、4代将軍家綱の後見役となりますが、自らが徳川宗家になり替わろうという思いは全くありませんでした。

会津藩主となり、将軍家血筋と認められても、正之は「保科」姓で終生貫き通しました。それは養父である保科正光への恩義の意思であるとともに、武田家家臣だった保科を名乗ることで、育ての母である見性院への敬慕の思いを示そうとしたのではないでしょうか。

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
マイケルオズ さん
フリーランスでライターをやっています。歴女ではなく、レキダン(歴男)オヤジです! 戦国と幕末・維新が好きですが、古代、源平、南北朝、江戸、近代と、どの時代でも興味津々。 愛好者目線で、時には大胆な思い入れも交えながら、歴史コラムを書いていきたいと思います。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。