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唱歌「鎌倉」の歌詞に登場する名将とは誰のこと?

唱歌「鎌倉」で歌われた稲村ケ崎
唱歌「鎌倉」で歌われた稲村ケ崎
 文部省唱歌「鎌倉」をご存じですか。歌い出しとなる1番は「七里ケ浜の磯伝い 稲村ケ崎 名将の 剣投ぜし古戦場」という歌詞で、もの悲しいようなメロディーで朗々と歌われます。

 七五調でつづられた歌詞の意味を紐解いていけば、古都鎌倉の歴史をたどることができます。1番の歌詞には何が歌われているのでしょうか。

唱歌「鎌倉」と、歌詞に出てくる人物

 「鎌倉」は、芳賀矢一が作詞したとされ、明治終わりもしくは大正初期に尋常小学読本唱歌として教科書に掲載されました。関東地方では、小学校の遠足で習ったという人もおり、今も多くの人が口ずさんでいます。

 歌は8番からなり、歌詞には七里ケ浜、由比ケ浜、鎌倉の大仏、建長寺、円覚寺など鎌倉の名所、旧跡、名刹が盛り込まれ、今流に言うならば「鎌倉のガイドブック」のような感じでしょう。

 それだけではなく、歌詞に登場する情景には、鎌倉の歴史がいくつも刻まれています。例えば、5番では源義経の愛妾・静御前が、源頼朝の前で愛しき人をしのぶ舞を舞ったという故事が、6番では南北朝の騒乱で、足利氏によって殺された大塔宮護良親王の無念が、それぞれ歌われています。

 そこで、1番の歌詞をもう一度振り返ってみましょう。歌詞の後半に「名将」の文字が出てきます。これは誰のことを言うのでしょうか。

名将とは新田義貞のこと

 ヒントとなるのは最後の「古戦場」という言葉です。長い歴史の中で鎌倉が戦場となった戦いといえば、鎌倉幕府滅亡の時とその直後の中先代の乱が思い浮かびます。さらに、軍記物語『太平記』を読めば、その答えが分かります。

 「名将」とは新田義貞です。義貞は、源頼朝や足利尊氏と同じ源氏の血統である新田氏の嫡男として生まれました。新田氏も鎌倉幕府の御家人でしたが、北条氏との姻戚関係が深かった足利氏と違い、地位も立場も低かったとされています。

 元弘3年(1333)、倒幕の行動を起こした後醍醐天皇に呼応し、各地で鎌倉幕府打倒ののろしが広がっていきます。幕府の命を受けて出兵していた尊氏を中心とした軍勢も、幕府に反旗をひるがえし、京都の六波羅探題に向けて進軍しました。

 関東の領国に戻っていた義貞は、尊氏と歩調を合わせるかのように挙兵します。最初は一族少数だけだった軍勢も徐々に膨らんでいき、それと同時に幕府側の拠点を次々と打ち破っていきました。そして、北条得宗家がいる鎌倉へと迫ったのです。

義貞の鎌倉攻めと七里ケ浜伝説

 鎌倉は、南側に海があり、北、西、東側は山に囲まれている要害の地で、守る側からは防御しやすく、攻める側は攻撃が難しいとされています。山には切通しと呼ばれる通路がありますが、北条氏が守りを固めていました。

 義貞は、鎌倉を西側の七里ケ浜沿いから攻めようと考えますが、稲村ケ崎という断崖の半島部があり、波打ち際が狭く、大軍を進めるのは難しかったのです。しかも、海上には北条氏の軍船が待ち受けており、無理して進軍しても海から攻撃されてしまいます。

 義貞は岬に立ち、「潮を万里の沖に退け、道を開かしめ給え」と、龍神に祈りをささげ、自分の剣を海に投げ入れました。すると潮が見る間に引いていき、大軍が通ることができる砂浜が現れたのです。

 これが「稲村ケ崎 名将の剣投ぜし古戦場」という歌詞の由来となる故事です。義貞の大軍が鎌倉に攻め入り、最高権力者だった得宗の北条高時をはじめ、北条一族は集団自決をし、鎌倉幕府は名実ともに滅び去ったのでした。

おわりに

 鎌倉を落とした新田義貞ですが、論功行賞を求める武将たちは、関東に残っていた足利尊氏の子・千寿王(のちの義詮)の元に集まっていったのです。のちに義貞は、後醍醐天皇による足利氏討伐の先頭に立ち、自分が武家の棟梁であることを示そうとしました。

両雄並び立たずの言葉通り、尊氏は足利幕府約230年の礎を築いたのに対し、義貞は不遇のまま生涯を閉じました。それでも、稲村ケ崎での義貞の伝説は長く語り継がれていき、唱歌「鎌倉」で名将と称えられるようになったのです。

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  この記事を書いた人
マイケルオズ さん
フリーランスでライターをやっています。歴女ではなく、レキダン(歴男)オヤジです! 戦国と幕末・維新が好きですが、古代、源平、南北朝、江戸、近代と、どの時代でも興味津々。 愛好者目線で、時には大胆な思い入れも交えながら、歴史コラムを書いていきたいと思います。

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