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理不尽な扱いの中、最後まで日本人の誇りを捨てなかった前田利貴陸軍大尉
- 2024/09/25
日本は敗戦により、多くの理不尽な扱いを受けてきました。戦争責任において、戦勝国から受けた一方的な裁判により、多くの有能な軍人が作られた嘘の罪状で死刑判決を受けました。
中でもインドネシアにおけるオランダによる裁判があまりに酷かったのです。しかし悲しいことに日本の皆さんはほとんど知らないのが現実となっています。死の寸前まで日本人の誇りを忘れず、オランダ軍を黙らせた前田利貴(まえだ としたか)陸軍大尉は、日本人として知っておかなければならない存在でしょう。
中でもインドネシアにおけるオランダによる裁判があまりに酷かったのです。しかし悲しいことに日本の皆さんはほとんど知らないのが現実となっています。死の寸前まで日本人の誇りを忘れず、オランダ軍を黙らせた前田利貴(まえだ としたか)陸軍大尉は、日本人として知っておかなければならない存在でしょう。
前田利家の子孫
前田利貴は、戦国武将・前田利家の子孫にあたる人物です。前田が生まれた大正6年、家は男爵の位を持ち名家として知られていました。前田自身も幼少の時代から英才教育を受け、エリート街道を歩むことに。しかし前田は、敷かれたレールの上を歩くのを嫌い、常に研鑽を忘れない青年だったのです。武士の末裔らしく、身体能力にたけ、馬術を得意とした前田利貴。その実力は折り紙付きで、将来のオリンピック候補にも名前が挙がっていました。そんな前田は、人当たりも良く、誰からも慕われる優しい性格だったといいます。
日本が開戦を決意した1941年、前田利貴の運命も大きく変わることになります。法学に精通し身体能力に優れる前田は、軍からすれば理想の人材でした。前田は陸軍に参加し、将校として海外へ派遣されます。戦地を転々とする間に、最終的には陸軍大尉となりました。
オランダ軍の虐待
前田利貴がインドネシアに駐留しているまさにその時、日本敗戦の一報を受けることになります。前田らは仲間とともに降伏、オランダ軍の捕虜としてインドネシアのティムール島にあった収容所に連行されました。そこで前田は、この世の地獄ともいえる現実を目にすることになります。オランダ軍が管轄する収容所では、人権を無視した酷い虐待が行われていたのです。前田も他の受刑者も屈強な大和魂を持つ者たちです。白人による侮辱行為や少々の乱暴で心が折れることはありませんでした。しかし前田たちが我慢ならなかったのが、日本人同士で殴り合うことでした。信頼する仲間同士で相手を傷つけるほど、残酷な仕打ちはありません。
そんな時、前田は仲間たちに次のような言葉をかけています。我々はどうせ死ぬのだから、この虐待を全て引き受け、同胞たちに少しでも虐待の及ばぬようにしようと。
戦争犯罪裁判
前田利貴は収容所に連行された段階で、自らの死を察していました。昭和13年4月29日、収容所内において戦争犯罪裁判が行われました。そこで前田は死刑判決を受けることになります。罪状は、現地民に対し拷問をして死なせたというもの。しかしそんな非人道的な行為をしたとする資料や証言は一切ありません。これは、日本によってインドネシアの植民地支配から撤退させられた、オランダの報復です。
この裁判で法廷に立った現地民の証言は、判決とは真逆のものばかりでした。現地で警備任務に当たっていた前田は、現地の人々たちから慕われていたのです。多くの住民たちは、最終公判まで前田に有利な証言を続け、命を助けるように懇願したといいます。
しかし裁判官はこれらの証言を全て無視して、虚偽の戦争責任を前田にかぶせて死刑を言い渡しました。ただ、前田は親族への遺書において、次のような内容を書き記しています。
「軍法会議で極悪人だと決めつけられても、一般の人々の声は善人だと言ってくれる。それだけでもう十分ではないか…」と。
死刑執行の前日
前田利貴は死刑執行の前日、残る死刑囚に世話になったお礼の文を書いています。そこには、「もし死刑となる4人の中で一人でも無事でいられたなら、私たちの最後の状況をいつの日か同胞に知らせて欲しい」と。そして、「後から来られる時には、先に逝った鈴木・和田・久保田・村上諸氏と共に、見晴らしの良い席を予約しておきます」とも。
そして最後の希望として、検事に申し出たことも記していました。その最後の希望というのは
- 目隠しをせぬこと
- 手を縛らぬこと
- 国家奉唱、陛下の万歳三唱
- 古武士の髪に香を炊き込んだのに倣い香水一ビン、これは死体を処理する人への私個人の心遣いであります。
- 遺体、遺髪の送付
の5つでした。この5つ、全てが承認されています。
オランダ軍を黙らせた大和魂
処刑の日の早朝、前田利貴陸軍大尉は穴井兵長と共にオランダ軍に連れ出されました。抵抗するような余地はないものの、2人とも目隠しもなく両手は自由になっていました。これは万歳三唱を行うため、前田が検事にお願いしたことです。前田と穴井は国歌をひときわ大きな声で歌い、天皇陛下への敬意を示して万歳三唱をしました。そして2人は、何かを語り合った後、静かに笑い声を上げたのです。直後に銃声が鳴り響き、彼らの死刑が執行されました。
その様子をじっと見ていた監視兵たちは、あまりの異様な光景に押し黙ってしまったそうです。なぜ死の直前になって、大声で歌い笑うことができるのか。オランダ軍の兵には、全く理解不能だったことでしょう。祖国と家族のために戦いそして死ぬ。前田の振る舞いはまさに日本人の誇りと大和魂を現したものだったのです。
その姿を見たオランダ軍兵たちは、最期の歌声と笑い声には恐れと驚きを感じたようで、直後から日本へ捕虜への虐待はなくなりました。かくして自分たちが犠牲になれば、他の日本兵への扱いがましになるかもしれないと言う、前田たちの願いは現実となったのです。この前田利貴陸軍大尉の最後は、減刑の恩赦となった山口亘利さんが書いた「南海の死刑囚独房」に詳しく記載されています。
前田が望んだ「もし死刑となる4人の中で1人でも無事でいられたなら…」という願いが通じたのでしょうね。死刑判決にすら動じず、捕虜となっても戦い続けた前田利貴。現代の日本人には、この精神性は忘れ去られたのでしょうか。先人たちが何のために戦い、何のために散っていったのか。日本人の心の中に刻まれた大和魂を再認識し、激動の世界情勢の中、これからの日本を守っていって欲しいと思います。
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