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幕末の薩摩藩で小松帯刀はどんな役割を果たしたのか

小松帯刀の像
小松帯刀の像
維新の英傑である西郷隆盛や大久保利通は、明治政府での活躍ぶりから「幕末の薩摩藩を支えてきた」と思われがちです。しかし、西郷も大久保も一藩士に過ぎず、藩の実質的なトップである島津久光が最も頼りにしたのは、家老の小松帯刀でした。

小松帯刀とは、どんな人物で、どんな役割を果たしてきたのでしょうか。

小松帯刀とは

帯刀は、天保6年(1835)に薩摩藩内の小さな領主の子として生まれました。薩長同盟の仲介を果たした坂本龍馬と同世代にあたります。

10代後半から20代前半にかけては、藩主の島津斉彬のもとで働き、薫陶を受けます。斉彬は、帯刀の優秀さを買っており、藩内でも名門領主である小松家の養子になるよう帯刀に命じ、ここに「小松帯刀清廉」が誕生するのです。

斉彬の死後、藩主・忠義の実父である島津久光が実権を握りますが、帯刀は久光にも重用され、側近として仕えました。このころ、西郷や大久保がリーダーだった志士集団「精忠組」との関係ができたとされています。

27歳で家老に抜擢

久光は帯刀を高く評価し、家老に抜擢しました。文久2年(1862)、帯刀27歳の時です。この年、久光は上洛と江戸入りを果たし、外様大名の父親という立場であるにもかかわらず、幕府に幕政改革を迫るという精力的な行動をしていました。

藩内では、精忠組の暴発に対する粛清(寺田屋事件)があり、江戸からの帰りには異国人を無礼打ちにする生麦事件が起き、内外ともに難しい情勢でした。そのなかで家老に取り立てるわけですから、久光は帯刀の手腕に期待していたのだと思われます。

大久保利通も久光の側近として重用されていた時期でしたが、側近と家老では役割の重さが違います。島流しになっていた西郷隆盛が召還されたのも、家老である帯刀が久光に強く進言したからだと思われます。

坂本龍馬も評価した男

同世代の坂本龍馬と出会ったのは、元治元年(1864)のことでした。勝海舟の海軍操練所が閉鎖となり、塾生だった龍馬らは、勝と懇意だった西郷を通じ、薩摩藩にかくまわれることになりますが、藩として決断を下したのは帯刀に違いありません。

慶応2年(1866)、対立関係にあった薩摩藩と長州藩は同盟を結びます。映画やドラマでは、西郷と桂小五郎が両藩の代表であるかのように握手する場面が登場しますが、薩摩藩の代表者はあくまでも家老の帯刀だったのではないでしょうか。

このころ、龍馬が兄あてに出した手紙の中で「当時天下の人物」と評した面々を書き綴っていますが、薩摩藩では真っ先に帯刀の名を記し、西郷とともに併記しています。帯刀が、名実ともに薩摩藩の名士だったことの裏付けと言えます。

おわりに

徳川慶喜が大政奉還の決断を下した時、小松帯刀は薩摩藩の代表として、慶喜に決断を迫るとともに、それが成し遂げられなかった場合の軍事行動(倒幕)の準備も進めていました。まさに、歴史の転換点で大きな働きをしていたのです。

しかし帯刀は、これからという時に病に倒れ、明治維新後には療養を余儀なくされます。明治の世に力を発揮することなく、その名を残すこともできず、明治3年(1870)にこの世を去ったのです。西郷、大久保を超えようかという逸材の早すぎる死でした。

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  この記事を書いた人
マイケルオズ さん
フリーランスでライターをやっています。歴女ではなく、レキダン(歴男)オヤジです! 戦国と幕末・維新が好きですが、古代、源平、南北朝、江戸、近代と、どの時代でも興味津々。 愛好者目線で、時には大胆な思い入れも交えながら、歴史コラムを書いていきたいと思います。

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