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シニアが手本にしたい伊能忠敬の第二の人生
- 2023/03/08
江戸時代後期に日本全国を歩いて測量を重ね、きわめて精巧な日本地図を作り上げた人物として名を残した伊能忠敬(いのう ただたか)。生涯をかけた大事業かと思いきや、驚くべきことに忠敬が測量を始めたのは「シニア世代」になってからでした。忠敬のバイタリティあふれる人生をひも解いていきましょう。
忠敬が残した「伊能図」
伊能忠敬が、第1次測量に出た寛政12年(1800)ころは、蝦夷地(北海道)周辺にロシア船が来航していた時期で、外国との交易を著しく制限していた幕府は、国防の必要性から蝦夷地の正確な地図が必要となっていました。忠敬の測量は計9回に達し、北海道から九州まで全国をくまなく歩きました。測量では、方位や距離、勾配だけでなく、天体観測をすることで緯度を割り出し、これを繰り返しながら精度を上げていったそうです。
忠敬が弟子らとともに作成した地図「大日本沿海輿地(よち)全図」は、忠敬没後の文政4年(1821)に完成し、幕府に献上されました。この地図は通称「伊能図」と呼ばれ、明治時代にも国家の地図を作る際に利用されています。
これだけの大事業を50歳代後半から手掛けてきた忠敬。まさに「第二の人生」を測量と地図作成に費やしてきたわけです。では、「第一の人生」はどう生きてきたのでしょうか。
家業を継ぎ、地域に貢献
忠敬は、延享2年(1745)に商家の子として生まれました。幼い時からそろばんに親しみ、算術好きの少年だったそうです。17歳の時、佐原村(千葉県佐原市)で酒造業などを営む伊能家の婿養子に迎えられ、名門の商家を継ぐことになります。忠敬は、新しい事業の開発や商圏の拡大などを通して、家業の立て直しを図っていったそうです。
家業だけでなく、名主や村方後見を務めたり、堤防修復工事の指揮を命じられたりと、村のリーダー格としても活躍していました。リーダーシップは当然でしょうが、おそらく人望も厚く、人材の活用も上手だったのではないでしょうか。
師匠から測量を勧められて
忠敬は、後継者となる長男に「家訓」を書き与えますが、これは第一線を退きたいという忠敬の意志の表れでした。忠敬が49歳となった寛政6年(1794)に隠居が認められ、家業は長男が後を継いだのです。ここから、忠敬の「第二の人生」が始まります。忠敬は、以前から興味があった暦学を学ぼうと決意し、江戸に居を移します。さらに、自分より年下である高橋至時に弟子入りし、本格的に西洋暦学や天文学の学問に励むのです。
高橋は、蝦夷地測量の計画を温めていました。当時としては老境の年齢ではあっても、行動力とバイタリティに富んだ忠敬なら、この計画を実行してくれるだろうと考え、忠敬も測量の旅に出ることを喜んだといいます。
こうして、忠敬の全国測量が始まったのです。第1次測量の時が55歳、最後の測量の時には71歳になっていました。測量の旅は陸路で4万キロを超え、その距離は地球ほぼ1周に相当します。
おわりに
伊能忠敬の前半生は、家業を守るという「お家のため」、村の役目を担う「地域のため」に捧げてきたといっても過言ではありません。ただ、その経験がさまざまな形で生かされ、全国測量と日本地図作成という大事業へとつながっていったのです。忠敬は、暦学を極めたいという「自分のため」に隠居後を生きようとし、結果として国家(幕府)に貢献することになります。これほどまでに見事な「第二の人生」はありません。今の時代に生きるシニア世代の励みになり続けているのです。
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